〈春の夢〉ってどんな季語?【ゑひの歳時記 卯月】
「ゑひの歳時記」は、1つの季語の幅広さを体感できるコーナー。上原・若洲が季節を意識しながら毎月それぞれ一つの季語をお題として出し、その季語に関することを自由に書きます。通常の歳時記(季語をまとめた本)では、一般的な季語の説明しかされませんが、このコーナーでは、2人がその季語を俳句に詠み込むときに考えていること、作る時のコツ(?)など、実はお役立ち的側面もあるかも……
この企画は「月刊俳句ゑひ」と連動しています。例句の一部を引用している卯月号はこちら。
若洲の場合(回答者)
春の空・夏の空・秋の空・冬の空、の「空」のように それぞれの季節の名前を前につけることで、季語として成立する言葉はいくつかある。ほかには「夜」などもそうだろう。しかし "なんとか(季節)のなんとか(単語)" だからといって、全てが季語になるわけではない。ならないひとつが「春の夢」だ。季節の名前がついて「夢」が季語になるのは、春しかない。
平家物語冒頭の一節「驕れる者は久しからず ただ春の夜の夢の如し」のように、春の夢は、はかないもののたとえとして用いられてきた。もちろん俳句の世界はこの文脈を踏まえている。しかし季語としての「春の夢」の意味はもう少し広い。具体的に言えば、春という季節の持つポジティブ(上向き)な印象、身体感覚に根ざした春の眠りの心地よさ、さらには生命の躍動、ひいてはある種の性的な表象でもあり得る点は、季語の意味に影響を与えており、これらを無視することはできない。もちろん筆者もこの季語を詠み込むときは、そのようなことを踏まえているつもりである。
ここまでは「春の」部分に注目してきたが、この季語で重要なのはむしろ「夢」の方である。上原の次の句を読むと、季語の本質的部分を端的に表現できていると感じられる。
「遠景」とは、自分から離れた距離にある景色のことだが、絵などの「背景」とは異なり、遠くに置かれた存在も主題に含まれていると捉えて良い。しかしこの句では遠景がないという。夢を見ているときのことを思い出していただければご納得いただけると思うが、大概の夢は、目の前にいる登場人物や、あっても近くの建物くらいしか印象に残らないのではないだろうか。よほどの方でない限り、遠景にある山脈やビル群まで記憶してはいないだろう。そしてさらに春の夢であるから、遠景は幾分霞んでいて、視認するのも難しいはずだ。
この句で、上原は春の夢「だろう」と表現しているが、作中主体は夢を見ている側なのか、それともそうでないのかでさえ、曖昧だ。しかしだからといって読みを諦めるのはまだ早すぎる。なぜなら、句中の登場人物の、少なくとも「誰か」にとって、その風景が目の前にあった/あることは、句の中の事実として存在するからである。にも関わらず、それが「春の夢」に見ている風景なのかさえ、はっきりしないとはどういうことか。
筆者としては、ここに「春」の「夢」の本質があると考えている。心地よいまどろみの中にいて、起きているのかいないのか自分にさえよくわからず、今のは夢だったのか……? と混乱するような経験、皆さんにもあるのでは。そんな実感に迫るからこそ読者は、ああ、春の夢らしいなあ、と感じることができるのである。
この季語を使う時は、夢だといえば何でも許されると勘違いされがちだが、そんなことはない。実体がないものを詠み込むときには、その背景や性質のメタ的詠み込みを意識する必要があると、筆者は考えている。
上原の場合(出題者)
「春の夢」は油断しやすい季語のひとつである。「5音+7音」のフレーズに「春の夢」を付けてしまえば、何であれとりあえず俳句っぽくはなり、つまり作りやすい。作りやすいから筆者などは春になると何かにつけて~春の夢である。しかし楽して働けば実入りが少ないのは俳句も同じで、句会に間に合わせるための句は作れても、いつか出す自分の句集に入れたくなるような句には、たいていの場合ならない。
そのように作り手にとっては意外と扱いにくい季語ではあるが、それでも私は「春の夢」が好きである。色彩で見せたり、実景と取り合わせたり、発想に制約がかからず、フレーズを八方へ飛ばせるのが楽しい。なかでも気味悪く作るのが個人的にいちばん楽しい。たとえばこんな感じ。
「春の夢」という季語を考えるときには、他の季語との違いを考えるのも一つの手。状況が似ている「春眠」という季語もあるが、差はなんだろう?
春眠や朱肉に脚を引き摺り込まれ
「春眠」とは文字どおり春の眠りのことで、春ならではの快さが本意。改変した句には、そこを敢えて裏切って気持ち悪く作ってみました~という意図が透けて見える。意図はあってもかまわないが全面に出過ぎているため、読者はうるさく感じ、白けてしまうように思う。(これを私は「相手を笑わせたいなら話すほうが先に笑ってはいけない理論」と勝手に呼んでいる。)そして「眠り込んだら朱肉に脚を引き摺り込まれる夢を見ましたとさ」という順当な述べ方や時系列の正しさを私ならつまらなく感じる。
「春の夢」を冒頭に置けば、そこはもう春の夢の中である。春の夢の本意には艶なる趣、華やかだがはかない人生など、どことなく混沌、あるいは屈託の気分というものがあり、そして時系列は初めから失われている。そんな時空の壊れた世界観においてなら、以下のフレーズの不気味さは相殺され、過剰に響くこともない。よって読者も堂々と素直になり、若洲の句の気味悪さを純度高く味わうことができるのではないか、というのが私見である。
以上、では大好きな春の夢よ、また来春。
次回は〈桜蘂降る〉(2023/05/12公開予定)です
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?