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【コダイ妄想】蘇我氏は大君でしょ?

万世一統を一刀両断シリーズ2回目。
下記リンク記事の2項目目。今日は蘇我氏の謎に迫ります。

蘇我氏が大君だったとして、その象徴はやはり聖徳太子でしょう。
実在を疑問視する声も多い聖徳太子ですが、私は数年前に四天王寺を訪れた際に確信しました。
聖徳太子は存在する」と。

…スピリチャルに「何かを感じたんです」とか「太子の声を聴いたんです」とかじゃないですよ、念のため(笑)。
単純にあんなに荘厳な寺社を建てたとして、架空の偶像が建てたこととするでしょうか?
自分の手柄だとしたいはずです。
また、偶像的アイコンが建てたこととして、崇敬を集めたでしょうか?
同じことが法隆寺にも言えますね。太子の遺品を納めるなんて発想、偶像に対して考えますか?


そして「太子堂」などの聖徳太子縁の地が多いこと。
関東の行基、関西の空海関連の伝説と同じくらいありますよね。
ですが、行基や弘法大師の存在を疑問視する人はまずいませんよね。

ただ、世間で言われているように「聖徳太子」はあくまでもニックネームであって、本名はずばり「蘇我善徳」だと私は思います。
善徳は蘇我馬子の長子です。隋に渡った…とも言われ、飛鳥寺の寺司になったとされますがその後の記録がありません。早逝したのでしょうか?
私は、弟・蝦夷と政治をリードして行ったのではないかと思います。
それでは都合が悪いので「聖徳太子」というニックネームを与え、蘇我氏ではなく皇族の出としたのでしょう?
なぜか?
聖徳太子の功績が偉大で全て消し去るのが無理だったからでしょう。
よく指摘されるように、厩戸皇子の名や伝わる逸話はイエス・キリストと酷似します。それは、キリストを元に創造したからでしょう。
つまりは「厩戸皇子」は存在しないのです。

「でも、太子は蘇我に反発していたイメージだけど?」という意見もあると思います。
それも後世、大化の改新のクーデターを正当化するために「蘇我氏が太子の子・山背王一族を滅ぼした」としたからでしょう。
蘇我一族であった山背王は入鹿・蝦夷と共に討たれたのだと思います。
大化の改新は、中臣氏と中大兄勢力が蘇我王朝を転覆させたクーデターなのです。

蘇我氏が大君(王君。後でいう天皇)―王朝のひとつであったら、いくつもの謎がすっきり解けます。

1.日本最古の寺・飛鳥寺を建立したのは蘇我馬子

馬子が太子・そして時の天皇家を無視して寺を建てた―蘇我は厚顔無恥で横暴で横柄だ…そんな話にもつながるこの史実ですが、もし馬子こそが時の天皇だとしたらどうでしょう?
全く不思議はありませんよね。
初めての寺、そこには初めての瓦も使われ荘厳であったといいます。
その財力や権力こそ蘇我の象徴とも言われていますが、そうでしょうか?
大君(後にいう天皇)であったからではないでしょうか?
そもそも天皇家を凌ぐ財力と権力があったら、国家転覆しちゃいませんかねぇ?
この時代には崇峻天皇が殺害されたりもしている、まだ天皇家の権威が安定していない時代です…。

2。蘇我氏のルーツが明らかにされていない。

これは中臣氏なども言えることなのですが、蘇我氏も馬子の父・稲目以前のことが曖昧にされています。

日本初の寺を建立したほどの豪族であるのに、です。
これは不可解ですよね。
『日本書紀』あるあるで「都合が悪いことは書かない!」というパターンではないでしょうか?(例;出雲関連)
誰に都合が悪いか?それは藤原氏にとって、時の天皇家にとって都合が悪かったのでしょう。
なぜならば、飛鳥で王朝を開いたのが蘇我氏だったから…ではないでしょうか?
皇統をひとつにするには、蘇我氏を悪者として排除するのが手っ取り早いです。
(中臣氏が突然出てきたことについての自論はまた後日)

3.蝦夷は専横した高飛車な高慢ちき?

これも『日本書紀』が植え付けたイメージですね。
蝦夷が自らの邸を「宮」と呼んだエピソードはその表れとして有名ですが、実際に大君(天皇)であったならば…問題ありませんよね?

4.橿原宮の立地

宮つながりで言いますと、蘇我氏隆盛の時代の京である皇極朝の橿原宮は、周囲を山に囲まれた窪地のようなところに建ちます。
「ブラタモリ」飛鳥編で案内人の方が仰っていたのですが、よほど敵がいない状態でなければ攻め込まれて終わり…の立地だそうです。
蘇我氏が天皇家と反目しあっていたり、他の豪族に悪し様に思われていたら、そんな場所に宮はおかないですよね。
つまりは、蘇我氏政権は安泰=蘇我氏が時の権力の頂点=天皇であったから…ではないでしょうか?

5.『旧辞』『帝記』の謎

大化の改新で入鹿の館にあったために焼けたとされる、『日本書紀』以前の国史『旧辞』と『帝記』。
なぜ蘇我氏の館にあったのか?日本がお手本としていた中華の国々のことを鑑みても、時の最高権力者が著し、保管するものではないのでしょうか?天皇家でなく、なぜ?
当時の蘇我の権力が天皇家を凌ぐものであったとしても、やはり解せませんね。
不比等の時代でも国史編纂は国家事業で、天皇・親王を中心に編纂したこととされています。
これもシンプルに蘇我=大君(天皇)であったとしたならば、矛盾もなくすっきりです。
ただ、多分『旧辞』『帝記』は燃やされたりせずに『日本書紀』『古事記』の母体になったのではないかな?と思います。
その後に焚書にされたものでは?と想像します。(中華に倣って)


以上。
自論を自由気ままに展開しましたが、いかがでしょうか?

更に言いますと…「欽明天皇」が蘇我稲目、「用明天皇」が馬子、「舒明天皇」が蝦夷で、「皇極・斉明天皇」が入鹿ではないかと思います。
そして聖徳太子こと善徳は「推古天皇」なのでは?
また別の機会に書きたいのですが、漢風諡号に「明」がつくのは蘇我氏王朝ではないかと推測しています。
弑しられた崇峻天皇は物部系の天皇だと思います。
当時はまだ王朝がひとつではなく、蘇我王朝と物部王朝が並び立っていて、その雌雄を決したのが物部合戦ではないでしょうか?


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