見出し画像

古代東国論①千葉VS埼玉

すっかりお久しぶりになってしまいました。
千葉・鹿島編を執筆するに辺り、掘れば掘る程に
深い深い思考の沼にはまりこみまして…
なかなか浮上することが出来ずにおりました。

まだ、千葉・鹿島編をまとめるだけのエビデンスや思考のまとまりが得られないでおりますので
少々違ったところから切り込んでいきたいと思います。

それは「古代の東国の要は千葉か埼玉か」です。

思考の闇に飲まれている間に、初めてさきたま古墳群に行って参りました。
言わずもがなの古墳のメッカ埼玉~群馬エリア。
その数の多さは全国規模で考察しても特筆すべきものがありますよね。

一方、古代と関連性のある地名の多い鹿島~香取界隈。
例えば、中臣鎌足の父・御食子は鹿島の神官であったとか、
鎌足誕生の地があったりとか、
わに川があったり、日向という地名があったり…などなど
所謂「大和朝廷」と係わりのないわけがない様子です。

「でも、飛鳥と鹿島…遠いよね?」

実はこの認識が私たちが「現代人」の定規で計ってしまう故の誤りなのです。

伊勢にいると特に感じられることのひとつが
「実は富士山が近い」です。

初日の出を富士山が見える山から拝んだことがあるのですが、
ご来光に照らされた富士山の大きさは感覚として
ディズニーランドのエントランスから垣間見える富士山の大きさとほぼ同じくらいでした。
地図で確認すると、直線距離は
 伊勢→富士山=舞浜→富士山
だとわかります。

そして、もうひとつは「船だと近い場所が多い」です。
名古屋に向かうのも、実は陸路よりも伊勢湾をフェリーで行く方が近いです。
また、地図で伊勢から関東の沿岸に目を走らせると、
 伊勢→浜松→下田→館山→銚子
と、半島の先端をつないで鹿島に辿り着くことが出来ます。

今は陸路が発達して、一昔前まで活躍したフェリー航路も続々なくなり、
「移動=陸路」としての距離感で捉えてしまいがちですが、
古代は「移動=海路」です。
しかも現代のようにせわしない時間軸で生活していないことも考慮すると、
飛鳥と鹿島は案外近いと言って良いのではないでしょうか?

実際、中世に北条氏の祖となる伊勢新九郎盛時(北条早雲)は
京の都から東国入りする際には、海路をつかっています。

また、千葉の日本寺には「源頼朝お手植え」の蘇鉄があります。
(石橋山で敗れた頼朝は安房に逃れたと伝わります)
海路で伊豆→安房までは容易に行きやすかったのでしょうね。

そもそも、千葉界隈は古代「上総国」「下総国」でしたが、
これも海から見ての上下になっています。

ところが、埼玉界隈はこれが逆になっています。
「上野」「下野」は、陸路で上下となっています。

つまり、同じ東国でも千葉・鹿島エリアと埼玉エリアは
海と陸という異なる文化圏にあったと考えることが出来ますね。

東国においての古代…
二つの文化圏があり
それぞれに異なる繁栄をしてきたので
どちらが「主」という認識はなかったと思います。

これは当時の日本全体もまだまだ異なる文化圏が共存していて
歴史の教科書で習うような「大和が日本を統一」はしていなかったその証左にもなるのではないでしょうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?