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スポーツ実況の危うさ(競技本来の醍醐味を伝える使命)

私が、陸上競技に携わる端くれとして、以前から気になっていることがあります。それは、『スポーツ実況の危うさ』。

特に、その点は、日本固有の種目である駅伝中継時に感じて来ました。

伝える側とすれば、駅伝が持つ、チーム性に由来する『絆』や『襷の重み』『自己犠牲』等、高いドラマ性を余すところ無く表現したくなるのは、やむを得ない部分は有ると思います。

しかし、それがエスカレートして、「見たく無いものまで、延々と見せられる」のは、耐え難いものがあります。

以前、実業団女子駅伝で起きた、中継所直前で、故障により走行が不可能になり、這って襷を渡すシーンであったり、箱根駅伝において、体調不良により走行不能になる過程を延々と流す、といった場面は、ランナーである自分にとっては、苦痛でしか無いものに感じて来ました。

私は、スポーツ実況というのは、その競技本来の魅力を伝えることが使命であると考えています。駅伝で言えば、個人種目では起き難い、『抜きつ抜かれつ』の逆転劇の連続が最大の魅力であり、その映像を漏らすこと無く伝えるのが、大きな役割のはずです。

その使命や役割を逸脱して、ドラマ性にだけ着眼した報道の仕方は、出来る限り避けるべきであると、切に思う次第です。

また、選手のキャラクターを際立たせる為に、ニックネームを付けたり、レースの状況とは明らかに関係が無いエピソードを、レースが佳境に入った中で紹介されることも、その場面に出くわす度に、不快な思いを抱きます。

もちろん、その駅伝レースの番外編として、レース開催前後に、そのような選手に纏わる人間ドラマを紹介することは、その駅伝大会の魅力を更に引き上げることに繋がるとは思いますが、レース本番の実況は、レース展開の紹介を最優先で行って欲しいのです。

駅伝でいう『ブレーキ』になってしまった選手にとって、その事実は、出来れば忘れ去りたい記憶となります。しかし、駅伝を走った責任感が、自分の思いとは逆に、その記憶を強化してしまうのが、現実です。

そして、ブレーキシーンを延々と放映し、人々の記憶に刷り込むことで、その選手に対する誹謗中傷が発生し、選手のその後の人生に、更に大きな影を落とすことに繋がってしまいます。

また、ブレーキとは逆に、際立った活躍をした選手であっても、マスコミ側が貼り付けたイメージに縛られ、呪縛となり、その後の競技生活において苦労することも多く見受けられます。

『山の神、ここに降臨!』に代表されるフレーズは、スポーツ実況の言葉として、最高ランクに位置付けられる表現だと思いますが、その言葉の印象が余りにも強い為に、選手にレッテルを貼ることに繋がってしまう危険もはらんでいると言えます。

あと1ヶ月弱で新年恒例の箱根駅伝が開催されます。今年も戦国駅伝の様相を呈して、様々な逆転劇が起きるはずです。その駅伝レース本来の醍醐味を、シンプルに味わえる実況となることを強く願っています。

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