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私のマラソン観戦史上最高レース『1983年福岡国際マラソン兼ロス五輪代表選考会』

私は、37年間、ランニングを続けて来ましたが、元々、学校時代は短距離選手で、どちらかというと長距離は苦手な方でした。

そんな私に、マラソンへの興味を大いに持たせてくれたのが、当時、『マラソン実力世界一』と称されていた瀬古利彦選手の存在でした。

私が、これまで観たマラソンレースの中で、「最も印象に残っているレースは?」と聞かれたら、迷わず、冒頭の画像にある『1983年福岡国際マラソン』と答えます。

このレースは、翌年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンへの選考会を兼ねていて、瀬古選手をはじめ、宗兄弟、伊藤国光選手、喜多選手等の国内有力選手とともに、当時、世界最高記録保持者だったアルベルト・サラザール選手も招待されていました。

私が、このレースを自身の『観戦史上最高レース』と思っている理由は、『マラソンは、記録よりも勝つことが、重要』ということを目の当たりにしたレースだったからです。

現在のマラソンレースに対する見方は、先ず、記録に目が向けられる傾向にありますが、一般的に、ランニングが市民権を得ていなかった当時は、『優勝』することに重きが置かれていた時代でした。

当時はまだ、世界と日本のマラソンにおける差が、ほとんど無かった時代で、主たる国際マラソンでも、日本選手が、優勝出来る可能性があったことも大きく影響していたのではないかと思っています。

そのような背景の中で迎えたロス五輪マラソン代表選考会を兼ねたこのレース。瀬古選手への優勝の期待は、とても大きいものがありました。

ましてや、世界最高記録保持者との対決となったことで、『マラソン世界一決定戦』の様相も呈していて、高校2年生であった私も、レース前から、期待感を膨らませていました。

しかし、瀬古選手は、レース3週間前、脚の故障を発生させて、1週間程、練習が出来なかった情報が、明らかになりました。「瀬古、ロス五輪代表へ、黄色信号点滅!」的な報道がされていたと記憶しています。

レースは、選考会特有のスローペースでスタート。その後、ペースが徐々に速まり、次第に、先頭集団の選手が絞られていきました。

サラザール、イカンガー、宗兄弟、伊藤国光、瀬古のメンバーで先頭集団が形成された後、40km付近で、イカンガーと瀬古選手の一騎打ちとなりました。

そこから先の映像がアップされていますので、以下に、貼付します。

2人の一騎打ちは、ゴール地点となっている平和台陸上競技場まで続き、競技場に入って、イカンガー選手が、少しスパートしたように見えました。

「これは、厳しいかな〜」と、瀬古選手の優勝を諦めかけていた次の瞬間、ゴール前のラスト100m手前で、瀬古選手がスパート。差は瞬く間に広がり、そのままゴール。見事、優勝とロス五輪代表の座を獲得しました。

私が、驚いたのは、ラスト100mを『12秒台』で瀬古選手が駆け抜けたこと。高校時代、中距離選手として活躍した瀬古選手のラストスパートは、レース前から定評がありましたが、当時、短距離選手で、100mを11秒台で走るのがやっとだった自分にとって、42km走った上で、12秒台でカバーした瀬古選手のスプリント力に、圧倒され、強く感動したことを今でも鮮明に覚えています。

先日、現役を引退いた大迫傑選手が、引退後に公開されたインタビュー動画において、「世界の背中を追いかけ、チャレンジ出来たのは、瀬古さんの存在があったから」と答えていましたが、マラソン15戦10勝という戦績を残し、自らも勝利に拘った、瀬古選手のマインドは、これからも、世界を目指す選手たちに、引き継がれていって欲しいと切に思っています。




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