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何かしらができる贅沢

こんにちは。
相変わらず、気分の沈んだ時間が続いています。
相変わらず、頓服の手放せない日々。


何もかもはできなくても、何かしらは

本当に本当に本当に、心の底から本当に。
何もかもができないという人間なんて、そう滅多にいるものではないでしょう。

けれど、これは現代社会特有なものかもしれないし、解釈を変えれば『優しさ』ということにもなるのかもしれない、行き過ぎた、あるいは当然の倫理観というものの形の一つなのかもしれません。

生きる上で、人は『何かしら』をして、お金を稼がなければならない。
お金を稼いで、食べ物を買って、住む場所を買って、服を買って。
余暇時間を買って、遊びを買って。幸せを買って、ラクを買って。

こういう一連の流れのようなものを、私は勝手に、時間を払って金を買うと、とてもざっくりした解釈しているのですが。
あるいは、心を払って金を買う、でも良いかもしれません。

まあ、とにかく。
人が生きているだけで持っている『何かしら』を払って、『お金』を買って、それで生活するのが、私のイメージする『普通に生きる』ということなのかな、と。

『優しさ』『倫理観』
私は、突き詰めれば、そういうものに生かされている人間、そういうもののおかげで延命してもらっている人間、だと思います。自分の力では生きていけないわけですからね。

大昔だったら、役に立たなければ野垂れ死ぬ、あるいは殺されて終わるだけの話だったでしょう。
使えない人間、居るだけで邪魔になる人間を生かしておくような意味は、特にありませんし。

けれど現代は、違う。
誰もが救われるべきで、誰もが助かるべきで、どうにかなるべきで。
どうにもならない人間は、どうにかするために努力をするべきで、助かろうとするべきで、救われようとするべきで。
どうにかできるかできないかに関わらず、未来なんてこれっぽっちも保証されないまま、今だけを保証されて。ただそれだけを糧に、未来のために今を生きなければいけない。

なんていうんでしょうか。
一言で言ってしまうのならば、残酷。

そう言ってしまうと、私は生きることを望んでいないように受け取られてしまいそうですが、そうではなくて。
ただただ、現象として観測した場合、私が持つ感想が、『残酷』という一言、というだけのことで。

まあ、今日かきたかったのはそういう話で、ただただそれだけの話なんですけど。

ただひたすらに、救われる地点にたどり着くまで、ご褒美のない人生。
救われる地点まで、本当に、何もない人生。
ただただ、生かされ続ける人生。
ただただ、頑張らなければいけない人生。努力し続けなければいけない人生。
誰かに認められるわけでも、自分が報われるわけでもなく、ただただたどり着くためだけの時間。そして、たどり着いてからがやっと始まりの人生。

最近、そういう時間に、うんざりしてきちゃったなぁ、なんて。
マイナスをゼロに戻して、そこからプラスにしていかなければ、そうしなければ、本当に何もない人生。
自分で自分のことを、赦すことさえもできない人生。

自分の生を望まれていたら、ただただ自分が生きているという現象そのものを望まれていたら、少しは救われたのかもしれない。
せめて、少しだけ、ありのままの私が許されていたのならば。

まあ、もう少し頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って。
それで、ゼロ地点にたどり着いて、初めて自分を赦せて、誰かに赦されるのを、気長に待つとしましょうか。
すれてしまわないようにだけ、気をつけなければ。

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