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2021/03/18『差別をしないと思うことが新しい差別を生む』

こんばんは。

ここ数日、夜更かしばかりですね。
いけないよお化けが出てきそうです。

冒頭部分は無駄話なので、本文だけを読みたい方はこちらからスキップしてくださいm(__)m


無駄話

こんな時間まで何をしているかって、小説について色々考えたり、書いたり、設定が食い違ってるとか無理やり感があるとかそういう部分を直したり。
そんなことばっかり繰り返していますね。

これだからいつまで経っても完成しないんだよ。

なんかこう、思いつきでさくっと書いて、サクッと完成すればラクなんですけどね。

あーでも、先日から気まぐれで連載している小説は、ニル・アドミラリの天秤という作品(2作目)に出てくる、レイセッカというキャラクターから名前を取りました。
最初は、『レイカ』にしようと思ったんですけど、男の子にその名前だとちょっと可愛すぎるかなって思ったので、レイセッカのやっている会社名(なんちゃらえんこうし、だった気がする)からとって、『エイカ』にしました。

ある人と自分のハンネを掛け合わせたみたいになってることに後から気づいて、すげー申し訳なくなってます。若干後悔もしています。

これだから思いつきはいけない。

勢いが大切な時もありますがね、勢いでやったことは大抵「そういうつもりじゃ…」みたいな荒が残りますからね。
やっぱり、慎重に考えるとか、慎重に行動するとかってのは大切なんだなと思い知らされますよ。

さてと。
今日はちょっと、真面目な記事を書いて寝ようと思います。


本文

私が中学生の頃、国語の授業で『障』という字を習いました。
新しく習ったというよりかは、確か、教科書の後ろのページにずらっと並べられている常用漢字の中にたまたま『障』という字が入っていたというだけのことだったと思いますが、まあその辺はどうだっていい。

ある生徒が、どういうふうに質問したかは忘れてしまいましたが、結果的に、『身体障害』のことを『身障』といいますよね?的な質問をしたところ、先生は、「それは差別用語ですよね。」みたいな返答をしました。
たったそれだけの出来事に、違和感というか、懐疑的な気持ちになったというか、得体の知れない気持ち悪さを感じたことをよく覚えています。

ここ数年になって、親戚のおばさんと顔を合わせる機会が多くなりました。
おばさんは足に障害を持っていて、両足が変な形をしています。
手すりやシルバーカーを使えば歩けはしますが、おそらく、つかまるものがない状態で歩くことはできないのではないかな?と思います。

数年前、おじさん(おばさんの旦那さん)が亡くなった時、おばさんのお家へ行ったとき、たまたま障害者の集まりの方らしき人たちが何人かいたんですよね。
それで、おばさんに、「身障の人たちだよ」みたいな説明をされて、例の授業の出来事をふと思い出しました。

おばさんは決して、誰かを蔑んで言った訳ではなく、ただただその名詞が説明に的確だから使っただけのはずで、その言葉には1mmたりとも差別らしい意図はありませんでした。

この出来事は私の中で結構衝撃的でした。

だって、国語の先生は良かれと思って、その言葉は差別の意図があるという説明をしたのだろうと思います。
私たちが差別をしないように、さりげない言葉で誰かを傷つけてしまわないように。

けれど実際は、当事者の間だとその言葉は普通の名詞として使われているらしい。
私たちにもその言葉を使って説明したことを考えると、当事者側はその言葉を『差別用語』とは思っていないのかもしれない。

むしろ、「『身障』は差別用語なんだ」と認識していた私の方が、差別を助長しているような気がしてしまいました。
先生の言ったことだからって鵜呑みにしてはいけなかったんだ。
そんな簡単なことにも気付くことのできなかったのか。なんて。

まあでも、実際、もしかしたら『身障』という言葉を使われて嫌な気持ちになる方もいるかもしれませんから、先生を否定することはできません。

かといって、『身障』という言葉を差別用語だと認識するということは、それだけで、『身体障害を差別する』という意識に繋がってしまう恐れがあります。
差別用語があるということは、差別される対象があるということですから。

差別で誰かを傷つけないためには、差別をしないぞ!と思うことよりも、ある程度差別するくらいがちょうど良いかなと。

差別をしないということは、できたら素晴らしいですが、現実的には結構難しいことです。
相手と自分が違うという認識を持ちつつも、同程度の対応をしましょうだなんて、聖母でもない限り無理です。

逆に、差別をすることはとても簡単です。
極端な例だと、20の大人と2歳の子どもには、それぞれにあった口の聞き方をするでしょう?みたいな。
相手と自分が違うと認識した上で、相手に適切な対応をしたとすれば、お互いに心地が良い。

一般には、違うこと(何かしらの基準)を理由に、悪意的な対応をすることを『差別』というのでしょうけれど。
個人的には、差別をさせてしまう刷り込みがある上での『差別』だと思うんですよね。

ありそうなやつだと、「〜だけど、普通に接してあげてください」みたいな、そういう一言です。
いやいや、無理があるでしょう、って。


眠いと、うまくまとまったものが書けませんね。
今日も遅くなってしまった。

おやすみなさい。
また明日。

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