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人間落第

恥に塗れることに、何も感じない生涯を送って来ました。

私って、少なくとも、現代社会で生きていくことが、とてつもなく下手なんだと思います。

下手、というよりかは、向いていない、の方が近いかも知れない。
苦手とか嫌いとかではなくて、下手というのも少し違くて、向いていない。

自分がいくら歩み寄っても、現代社会の方が私を見捨てようとしてくる、みたいな感じ。私の方を向いていない。

被害者っぽい言い方ですけどね。

もし私が、向いていないではなく、下手だったとしたら。
別に、自ら歩み寄ろうとはしてないけど、それなりにやり過ごす程度の器用さを持てたのではないかなと思います。

それが、下手と、向いてないの違い。
って、勝手に思っています。


さて。

この世界で自分がまともに生きていくことを諦めた方が、いっそスッキリする気がしたんですよね。なんとなく。
開き直ると言い換えても構いません。むしろ、そのほうが適切かも知れない。

本来、できるように、自分の力で生きていけるように、努力しなければ行けないもの、なんですよね。

それが、現代社会における『人の営み』であって、『人がまともに生きていく方法』であって。

あれです。私は、人間失格…ではありませんね。
初めから。初めの一歩でコケたわけですから、人間の営みに適合していた瞬間なんてありません。人間落第です。

人間ですらない。残念でした。


人の営みに溶け込めないとか、人がどうしてそうするのかが分からないとか、そういうわけではないんです。
溶け込もうと思えば溶け込めるし、人の動機というのも、言葉の上では分からないこともない。

ただ、少なくとも、自分の足で立って、自分だけで歩みを進めていくことができないというだけで。
まあ、それだけで十分、大問題なのですが。


開き直るのなら、もっと派手にというか、馬鹿みたいに盛大に、開き直りきってしまえばいいものを。
それをしきれないのが、人間の落第者です。

そういう思い切りや、潔さや、馬鹿さや、器用さを持っていたら、そもそも人間を落第することはなかったでしょう。

人であるために大切な色々なものを捨てて、人間落第という称号を手にすることを、望んではいなかったのかも知れないけれど、結果だけを見るとどうにも、望んで自ら手に入れた称号のように思えてきます。

自分の人生のほとんどは、自分の力ではどうにもなりません。
親も、国も、地域も、言語も。学校のクラスも、教室の位置も。
出会う人や物は多少、自分の力でどうにかなるかもしれませんが、突き詰めていけば全て『巡り合わせ』という話であって。
まあ要するに、全てが偶然が手繰り寄せた必然、というか。
もっと要するに、自分の力でどうにかなる範疇を超えているというか。

それで、そうして生きて来た結果。
私は、人間を落第してしまったわけです。

自分のせいだけど、自分ではどうすることもできませんでした。
自分のせいではないけれど、自分が責任を取るほかありません。

理不尽でも不条理でもなく、これもまた運命というか。
人間を落第した人に与えられる罰なのかもしれない。あるいは何かの機会なのかもしれない。

全部嘘で、そもそもが全て勝手な思い込み、という、本末転倒な解釈もできますけれど。

どういう解釈をしたところで、自分の運命は変わりません。
現実は変わらないし、自分は変わらないし、何も変わらない。
有り難いことに。迷惑なことに。


そうそう。
私は、『人間失格』という本を、3割程度しか読んだことがないので、作品の内容については全く知らないと言ってもいいでしょう。
しかし、よくよく考えてみると、この題名は、生まれながらに自分は人間だという資格を与えられていたとか、一時はその条件を満たしていたとかで、人間だったけれど、何かの拍子に失格してしまったと。文字だけを見ると、そう言っているように見えてきます。

太宰治はもしかしたら、誰よりも人間らしかったのではという感じがしますよね。
人間がなんたるかを知っていたのでは、と思うからです。

私はあくまで、人間落第で、人間を営み続けることができないと主張しているので、人間がなんたるかなんてことは知りません。
興味は、ありますけど。


本物と全く見分けのつかない偽物があったとして。
本物と偽物どちらに価値があるか。

西尾維新先生が、色々な著書の中で取り上げてる、論理クイズのような物です。答えがあるものではないのですがね。

西尾先生が著書の中で挙げている回答としては、
①本物に価値がある
②等価値
③偽物に価値がある
の3つでしょうか。

①は、まあ感覚的になんとなく、分かる気がします。

②は、著書の中でこれという理由は述べられていませんが。
私的には、例えば物だったとすれば、全く見分けのつかないのだから、どちらも使用上全く問題なく、十分な価値を持っている。ならば等価値だという考え方が一つ。
本物には、本物という価値があり、偽物には、偽物という価値があり、それそれベクトルが違うものだから、そもそも比べることができない。しかし、「どちらに価値があるか」という問いに答えなければならないとすれば、どちらにも価値があって、どちらにも価値がない、プラスマイナスゼロで等価値になる、というのがもう一つ。こんなところでしょうか。

③は、著書の中で何度も述べられています。
偽物には、本物になろうという気持ちがある。
両者が物として当価値ならば、「本物になろう」という気概の分だけ、本物よりも本物らしい、というもの。


話を戻して。

何が言いたかったかって、自らを『人間失格』と評した太宰治は、それでも人として生きようとしたわけです。
そして、一応は人の営みの中を生きていたはず、なのです。だって、生きていたんですから。
それは誰よりも、人間らしいことだったのでは、と思います。

それに対して私は、一周回ってなのか疲れてなのか。まあ理由なんて後付けしようと思えばいくらでもできますけれど。
人の営みに溶け込もうとか、人として生きていこうとか、そういう気持ちを投げ出してしまったわけです。
人間を落第してしまったわけですからね。

それでもなお、生きているわけです。
人に適合しない何かが、本物になろうという気概のない偽物が、ただただ生きているわけです。

これは由々しき事態だ。

人間を冒涜している、人間の偽物の行く末って、なんなんでしょう。
どうなるんでしょう。

ちょっと、興味がありますね。
ずるがしたいとか、悪知恵がどうこうとかでは全くなくて、本当に単なる知的好奇心です。

一生、何として生きていくんだろう。
一生を、どう過ごすんだろう。
生きて、それは一体なんのためで、何になるんだろう。

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