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非力の証明

私の敬愛する、結城浩先生の過去の記事が、別の記事を読んだときのおすすめに出てきたので読んでみました。

結城先生の代表作といえば、『数学ガール』
やさしく、たのしく、身近に。
『物語』の登場人物たちと一緒に『数学』を学べる、素敵な作品です。

興味があったら是非、読んでみてください。
学校や公立の図書館にも置いてあると思います!


セルフジャッジ

“結城は二十代のときにそういう思いをよく抱いた。私はなんと非力な存在だろう!ちょっと待て。本当に非力なら、自分が非力だと判定できないじゃないか!”

これを読んで、私はすごく納得しました。
それと同時に、私が私を「非力だ」と判断している材料ってなんだろう?という気持ちになりました。

もしかしたら、材料というよりかは、原因と言った方が適切で。
もしかしたら、自分が非力であることを望んで「非力だ」と判断しているわけでも、心の底から本当に「自分には未来なんてないんだ」って思っているわけでもないのかもしれない。なんて。


学習性無力感、的な

結論から言えば、『失敗をし過ぎた』とか『成功が少なすぎる』とか、そういうところに落ち着く話だと思います。

今まで成功しなかったから、これからだって成功しない。
今まで上手くできなかったから、これからだって上手くできない。

こういうものを、心理学の用語で『学習性無力感』と呼ぶそうです。

「自分には可能性があるかも」と思えるプラスの経験よりも、「自分はダメなんだ」と思えるマイナス経験の方が、多いのか、記憶に残りやすいのか…。

そういえばずっと昔に、とある乙女ゲーから引用して、こんな記事もかいてましたね。

“フーカ「はい。楽しいことを忘れてしまうのは、また楽しいって思うためで。辛いことを忘れられないのは、もう繰り返さないようにするため。だから、楽しいことはどんどん忘れていいと思うんです。」”

このくらいポジティブに生きられたら、毎日がささやかな『楽しい』で満ちていたら、苦労はしないんですが…。
ただ生きることに精一杯だと、『楽しさ』にたどり着くまでの道のりが既にしんどいんですよね。生き苦しい。


成功する前に失敗してはいけない

少しそれますが。
私は『成功をする前に失敗をしてはいけない』と思っているタイプの人間です。

もちろん、練習ならいくら失敗をしてもいいと思っています。
初めてやって上手くいかないのは当然のこと。

でも、本番は違う。必ず成功させなければいけない。

幼稚園のお遊戯会では、本番のために、何度も何度も練習をします。
本番の朝は、「頑張ってね、見てるから」とおまじないをかけてもらって、本番中も、上手くいくようにと、先生たちが舞台袖で見守ってくれて。
そうして、成功への確実な道筋を作ってくれる。必ず成功して、『良い経験』にするために。

でももし、3歳くらいの、目の前が全ての子どもが、初めてのお遊戯会で失敗してしまったら?
3歳の子どもが、どれくらい覚えているかも、どれくらい状況判断ができるのかも微妙ですが。次の年のお遊戯会は「嫌だ」と言うかもしれない。
小学校に上がっても、人前で何かをすることが、なんとなく苦手になってしまうかもしれない。

だから、成功する前に失敗してはいけない、と、私は思います。


「諦めるのは、まだ時期尚早だと言わざるを得ないとも!」

by 美少年探偵団 双頭院学〔西尾維新〕

そういう私の経験や価値観も含めて改めて、結城先生のお願いは、大切なことだと思います。

”結城からのお願いが一つある。自分に「猶予」を与えて欲しい。自分自身に「時間の猶予」を与えてほしい。未来のために。自分のために。”

もし、成功する前に失敗してしまったとしても、「今じゃない」と思うことさえできれば、なんとなく未来に希望が持てる。(流石に、3歳児には難しそうですが…。)
全然上手くいかなくて、小さなことから大きなことまで失敗続きだったとしても、まだ先があるからと前を向くことができれば、そこで終わってしまうことはない。

私の場合は、根本的に、それができないから落ちるところまで落ちてしまった感はありますが。
そのおかげで逆に、色々な『猶予』と、『余裕』の大切さを知りました。

時間も、心も、お金も。暮らしも、考え方も。
いくつものことを切り詰めたままの生活は、そう長続きしません。
甘やかしとも思えるくらいの、ちょっと過剰なくらいの『手抜き』がなければ、苦しくなっていってしまうばかり。

そう思う一方で、『余裕』がなければ、『猶予』は与えられないなぁとも感じています。

心に余裕がなければ、「大丈夫だ」なんて呑気なことは言っていられません。
時間に余裕がなければ、今日をお休みにすることはできません。
お金に余裕がなければ、遊んで心の余裕を作ることも、外食をして時間の余裕を作ることもできません。

追い詰められている時ほど、自分を追い詰める方向にしか物事を動かせなくなってしまうもので。そういう時ほど冷静にならなければいけないのに、どうしてもなれない。

切羽詰まる前に踏みとどまれる瞬間というか。
今ある『余裕』と、与えられる『猶予』のバランスが取れるポイントを見つけることもまた、難しいですよね。

そういうことを模索する旅こそが人生、なのかもしれません。


非力の証明

感情は、経験に基づくものです。
そして経験は、自分で取捨選択できるものもありますが、大抵は、どうしようもなく迫ってくる宿命のようなものばかりです。

いくら自分が自分を愛せていても、そこに土台となる『経験』がなければ、自己肯定感との釣り合いが取れていない不安定な愛になってしまう。
それは突き詰めると、「好きだけど期待はしていない」みたいな、冷たい愛情のように思います。

また、「自分は非力だ」という証明ができないように、「自分には力がある」という証明もできません。
土台となる『経験』があれば、多少未来を信じることができても、なければ勝手に絶望することしかできません。

それが私の苦しさで、生きていくことに希望が持てなくなってしまうことの、『正体』だと思います。

ここまできてしまうと、『猶予』を与えるだけではどうにもならなくなってしまう。
欲しいのは、立ち止まったり考えたりする『時間』ではなくて、自分そのものを支える『土台』だから。

『猶予』のための『余裕』で、『余裕』のための『土台』

難しいですね、生きていくことって。生きていく意味って。
それでも、いつかは、それなりに生きていけるようになりたいものです。

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