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歩んできた道が恐ろしい

こんばんは。

一応、毎週何かしらを投稿し続けてはいるものの、前に比べると圧倒的に分量が減ったし、質も落ちたし、サボるって怖いなぁって思い始めています。

幸か不幸か、いや、不幸でしかないんですけど、あいも変わらず仕事は見つかりませんので、仕事が見つかるまでの間、もうちょっとまともな記事を連続投稿していこうかなぁなんて思っています。

期待せず、お待ちください。


身の振り方を

もうちょっとで二十歳だし、成人式も迎えるしで、そろそろ自分の身の振り方を考えなければって、だいぶ前から言ってますよね。

今日書くことも、その一環と言ってしまえるようなことで。

まあでも、だいぶ前の、心の中をそのままぶちまけるようなスタイルで、読みにくいけれど確かな文章を紡いでみるつもりですので、『二十歳に向けて』ではなく『かきつけ』として残しておくことにします。

さて、本題。

まずは生活保護脱却に向けて、仕事と障害年金で自分の生活を成り立たせていこうかなと考えているわけです。

仕事の方は、マジで書けるような動きがないので、障害年金の話。

障害年金は、20歳から受けることができます。
つまり、私はまだ19なので、受けることができません。

ちなみに、申請は20歳になる誕生日の前日からできます。

そんなわけで、絶賛、申請資料作成中です。


振り返る、向き合う

私の場合、うつ病で申請することになりますから、どうしてうつ病になったのかとか、うつ病になってどんな生活をしているかとか、そういうことを細かに記載する書類があります。

その記載に、大いに役立ってくれているのが私の『日記帳』

まあ、マメな性格をしているわけではないので毎日はつけていないんですけれども。

しんどい時であればあるほどこまめに、1日のうちに何度も、何ページも、どこにも吐き出せなくて、誰にも伝えられない心のうちをぶちまけるように書かれています。

今使っているもので3冊目になりますが、つけている期間としては大体2年と半年くらいでしょうか。

本当のことを言うと、中高と書き殴っていたものもあるのですけれども、もう捨てましたね。
黒歴史かつ弱味でしかないので、家族であれ友達であれ誰かに見られたら死ぬしかないと思って。

閑話休題。

内容、なのですがね。
読むと、恐ろしいほどに、当時の自分は自分をよく分析しているなと、感じさせられます。

なんかもう、根本的に、自分に対する自分の向き合い方が違う。

それはもしかしたら、『うつ病の人』と『うつ病から抜け始めた人』の違いが、分かりやすく形になっただけなのかもしれませんけれど。

正直、最近の私が書いた日記を読んでいても、内容が薄っぺらい。

気持ちとか思考とか、何かしらの筋道があって、結果がある。
加えて、その結果をあくまでも一つとし、違う角度や違う筋道を立てて同じ現象と向き合って、再度結果を出してみる。

そういうことは、今も昔も変わりなくやっているんです。
多分、私のクセですね。

変わりなくやっているはずなのに、そこにかかってくる重みが、全く違うもののように感じられます。

分かりやすく言ってしまうなら、昔はもっとドロドロしていたって感じかな。

確かに、最近の日記は、何かがあって、それに対して何かを思って、というだけのことが書かれていることが多くて。
まあこっちの方が一般的な日記なのかもしれませんけれど。

日記に対してこういう感想を抱くのは間違っていると思いますけれど、昔の日記は物語性があったのに対し、今の日記は備忘録でしかない、みたいな。

要するに、読んでても面白くないんですよね。


どっちの自分が良いか

多分、今までは『自分』といえば、昔の自分だったはずです。

決断するでも思案するでもなく、ただただ結果を先延ばしにするためだけに思考回路を動かし続けるような、自分。

自分はそういう自分で、それ以外の自分は存在しませんでした。

それは、社会にでようだとか、何かをしたいだとか、あらゆる意欲という意欲を微塵も持つことのない人間だったからこそ、結果に価値を見出すことなく、過程そのものに価値≒独自の面白さを見出していたのだと思います。

全てが自己完結する生き方をしていましたからね。

一方で今の私は、だいぶ変わってしまいました。

やりたいことがあって、そのために仕事をしたいなと思っていて。
まあ何にせよ、社会に出なければいけないなという覚悟も持っていて。

ね、大違い。

でも、こうやって普通になってみると、価値があるのは結果で、その過程がいくら面白く、興味深いものであったとしても、思案している時間というものはできる限り短い方が良くて。

足踏みする時間は短く、前へ進む時間を多く。
絶え間なく進み続けることこそが、本来の生きるということなのでしょう。

では、どっちの私の方が良いのか。

正直、ラクでいたけれぼ、昔の方が圧倒的にラクでした。

プラスがない代わりに、マイナスもないというか。
全てが自己完結する世界に居さえすれば、何かに動かされることも、動かなければいけないこともなくて、苦しみも悲しみも傷つきもしないわけですし。
その代わり、楽しさも嬉しさも喜びも、全然無いのですがね。

それが苦しくなってしまったのは、多分、やりたいことや欲しいものができてしまったからですね。
欲求が、自分に向くのではなく、他に向くようになってしまった、と言うと分かりやすいのかもしれません。

そうなるとどうしても、自己完結させられないのです、当然ですが。

習い事がしたければ、習い事をしなければ欲求は満たされませんし。
何かが欲しけば、それを手に入れなければ欲求は満たされませんし。

当然過ぎて何を今更、って話なのですけれども。
私がしていた生活というは、そういう生活です。

寂しければ、ノートを広げて自分の心の内とお話をする。
つまらなければ、ノートを広げて何かを書く。

何かが欲しいなとか、やりたいなって思ってしまった時は、私には無理だなって、まるで初めから欲しい・やりたいと思っていなかったかのように、自分にウソをついて、自分を騙して。

そういう、虚ろな楽しさと、虚ろな承認とで自己完結していたのです。

今思えば狂気ですけどね。

まあ、ですから、私は、今の私を気に入っているかな、と思います。

豊かでも満足でも無いけれど、それなりに楽しくて、それなりに嬉しくて。
何より、自分がいられる世界が広くなったような気がします。

それだけで、幸せ過ぎるほどに幸せだ。


歩んできた道が恐ろしい

ずっと昔、多分何かからの受け売りだとは思うのですが、『いつか、歩んできた道に自信を持てるような生き方をしたい』なんて思っていたことが、あったようななかったような。

それは要するに、自分の生き様に自信を持ちたいということなのだと思いますけれど、私は、自分の生き様に恐怖を覚えます。

なんか、人間らしさを感じなくって。

機械的だとか打算的というわけではなく、冷めてるとか期待をしてないというわけでもなく、ただただ人間らしく無いような。

自分の中だけは、自分の温もりで温かいけれど、外から見たら凍てついているような感じでしょうか。

それがもう、どうしようもなく、気持ち悪いし恐ろしい。

全くもって誇れないし、本来はこんなSNSなんかで明かすべきでは無いだろうし、自分以外は知らなくて良いことだろうし、自分でさえ知りたくもないことというか。

はぁ。

そういう生き方を見つけることができてしまったこと自体、よっぽどの狂気ですよね、全く。

でも、確かに、昔の自分はもっと、異端な面白味があったろうな。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。