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『嫌う』ということ

こんにちは。

最近は少し、調子が下がり気味のようです。
無気力というか、うまくエンジンがかからないというか、頭が回ってくれないというか。

私生活が少しずつ変わっていきそうな予感がするので、そういうことに不安を抱いているのだろうとは思います。

歩みを止めるな、私。


『好く』ということ

最近、よく彼女とLINEをしています。

というか、私の生活は本当に何もなくて、多分ほとんどの人がつまらなすぎて発狂できるくらいには暇を持て余しているのですけれど。

だから、つまり、私の生活において些細なことがあれば、それだけが私の生活を彩る華になるわけです。

例えば、小一時間彼女とLINEをすると、今日やったことはそれだけで、それ以外は何もないくらい、彼女とのLINEの彩が豊かなわけです。

そんな話は置いておいて。

彼女とLINEをしていて、ふと、人を好きになるということがどういうことなのだろうって、考えてみたわけです。

私には、大好きな恋人がいます。でも、彼女のことも大好きですし、弟たちのことも大好きです。

私の中ではきっと、恋人と、彼女と、弟たちが、同じくらいには好きだと思います。

でもその『好き』って、同じ意味の好きではないというか、ベクトルが違うというか。

とにかく、どの好きも全く別の感情だと思っているのです。


好きと、好きと、好き

「ハンバーグが好きだ」という時の『好き』と、「恋人が好きだ」という時の『好き』が、全く同じ人ってあり得ないと思うのです。

「私は恋人よりハンバーグの方が好きだ」なんて人もいるかもしれませんが、それは単に、恋人の総合的な魅力がハンバーグの総合的な魅力より劣っているというだけのことで、例え恋人よりハンバーグの方が好きでも、恋人と別れてハンバーグと付き合うなんて展開にはならないでしょう。

要するに私が言いたいのはそういうことなのですけれども。


私は弟たちが、血を分けた兄弟として、好きです。

長い間、同じ境遇で生きてきただとか、それ故に互いのことがそれなりに分かっているだとか、趣味が合うとか、話が合うとか。
あとから理由をつけようと思えばいくらでもつけることはできますし、そういう後付けの理由があるからこその好きも、確かにあるのかもしれませんけれど。

でもやはり、血を分けた兄弟という点は、運命以前に遺伝的に結ばれているわけですから、特別なものを感じます。

私の兄弟に対する『好き』のはじまりは、そういうところにあると思っています。
姉として弟たちが好きって、別に、特別なことでもなんでもないでしょう?


同様に、私は彼女が、かけがえのない友人として、親友として、好きです。

兄弟のように、切っても切りきれない縁で結ばれているわけではありませんから、こればかりは彼女が彼女だから好きということになります。

彼女が彼女ではなければ、ここまで好きにはなれなかったでしょう。
でも、未来で今の彼女が今の彼女でなくなったとしても、それは今の彼女が選んだ道というわけですから、私はその彼女も好きだと言える自信があります。


もう一つ、私は恋人が好きです。

どうして好きなのか、自分でもよく分かっていないのですが、これもやはり、彼が彼だから好きということになるのでしょう。

彼が彼でなければ、ここまで好きにはなれなかったでしょうし、
彼が未来で、今の彼ではなくなったとしても、それは今の彼が選んだ道というわけですから、私はその彼も好きだと言える自信があります。

なんて、彼女と全く同じことを彼に置き換えていってみましたけれど、その実態は全く別物です。


らしさ

私はできるだけ、相手の個性を尊重したいと思っていますし、相手自身にも自身の個性を尊重して欲しいと思っています。

お互いに望まない形で、お互いが影響しあって、お互いの個性を潰すようなことは、絶対にしたくないと思います。

一緒にいるだけでそうなってしまうような場合は、どちらが悪いというわけでもなく、ただただ相性が悪いということだと思っていますし、そういう場合も十分にあり得ると思います。

という前置きを挟んでしまいましたが、彼女と彼の話でしたね。

彼女は彼女らしい部分があって、それがたまたま私との相性が良いのだと思います。
彼にも彼らしい部分があって、それがたまたま私との相性が良いのだと思います。

でも、彼女と彼の持つ個性、『らしさ』は、全然違うものです。

以前の記事で書いた通り、彼女は私を連れ出してくれるタイプで、彼は私の隣を歩いてくれるタイプだと考えています。

どちらも掛け替えのない人ですし、どちらも私にとって必要な人であることに変わりはないけれど、私が恋人である彼へ向ける『好き』を彼女に向けることはできませんし、その逆も然り。

私はそれぞれの『らしさ』を好きになっているのでしょうから、恋人とハンバーグとまでは行かずとも、ハムスターとリスくらいの違いはあると思います。


好きの反対

さて、この時点でだいぶ長くなってしまいました。
本当はこんなに長く書くつもりはなかったのですが、書いていて楽しかったのでよしとしましょう。

ここまで『好き』ということについて書き連ねてきましたが、今日ここで書きたいことは『嫌い』についてです。

『好き』と『嫌い』は対極だと考えられることが多いですが、私はそうは思いません。

しかし、「『好き』の反対はなんなんだ?」「『嫌い』の反対はなんなんだ?」と聞かれても、今の私は答えを持ち合わせてはいません。

ただ、「どうして『好き』と『嫌い』が対極だとは思えないのか?」ということについては、答えを持っています。

私は先述した通り、人を『好き』になることはできます。

そして私の持つ『好き』は、それぞれに対して固有の形を持った『好き』であることも、それとなく伝わればと長々と書いてみました。(あんなに長い説明を書かずとも、この一文で済んでしまいますね。)

けれど私は、人を『嫌い』になることは、ほとんどの場合、できません。

だから、私は『嫌い』ということがどういうことなのか、よく分かっていないのです。

『嫌い』が分からないから、『好き』と『嫌い』が対局だとは思えない。
ただそれだけのことです。


『嫌い』にならない方法

『嫌い』と思う前に、私は相手を分析します。

分析をする段階で、『馬が合わない』のか、『生理的に受け付けない』のか、『怒っている』のか、私が相手に対して抱いている感情に正確な名前をつけてあげます。

そうしてみると、相手そのものが『嫌い』というわけではなく、

・単に『馬が合わない』から、一緒にいるとしんどくなってしまう。
・相手のある行動を『生理的に受け付けることができない』から、避けたくなる。
・相手にされたことや言われたことに対して『怒っている』から、自分の気持ちが相手に対してトゲトゲしてしまう。

馬が合わなかったり、生理的に受け付けなかったりするのなら、相手との関わりを避ければ良いだけですし。
怒っているのなら状況に応じて、相手に伝えたり、距離を置いてみたり、そういう風に対処すれば良いのです。

結果的に、そういうふうに感じる相手に対して適切な対処をすれば、その人を『嫌いになる』というところまでは行かないということです。

『嫌う』ということから逃げているだけとも言えますが、自分のためにも相手のためにも、互いにあるいは一方的に、相手を嫌う前に防ぐことができれば、双方だけでなくその周囲の人間にとっても良いことだと思います。


美化

先ほどのことも事実ではあるのですが、私の持つ考え方を美化するならば、どんな相手であっても、愛情を捨てきれないとも言えます。

私にとって『嫌う』ということは、相手への思いやりや愛情が皆無になってしまうことでもあるので、できる限りそういうふうにはなりたくない。

いくら私を傷つけた人でも、苦しめた人でも、例え人生をめちゃくちゃにしてきた人であっても、その程度では思いやりや愛情を捨て切って、嫌いになることはできません。

私でなくとも、私以外の誰かならばもその人が救えるかもしれませんし、傷つけられたり苦しめられたりした私だからこそ見えるその人の姿というものもあるでしょう。

私はどちらかと言われれば、性悪説よりも性善説を信じるタイプの人間ですから、悪意だけを持って悪意をぶつけてくる人間なんて、そうそういないと思うのです。

だから、どんな最悪で凶悪な相手だったとしても、嫌いだと切り捨てることができません。

甘いですね。


悪意のない悪行

ちょっと話が逸れるかもしれませんが、私が苦手とする相手の一つに、「悪意を持たずに悪行を働く」というタイプがあります。

例えば、仲間内での煽り合いが冗談で行われているとしましょう。

当然、初めから終わりまで冗談ですから、その煽り合いに『悪意』というものは一切含まれていません。

けれど、煽りが煽りであるという事実は変わりませんから、そこに悪意があろうとなかろうと、嫌な思いをする人がゼロだという確証はありません。

悪意のある悪行は、初めから悪意によって動いているのですから、つまりは初めから非を認めているわけです。

悪意のない悪行は、初めから、気分だったり雰囲気だったり、そういうものに流されての行動ですから、悪行だという自覚すらないことも、むしろ盛り上げようとしたみたいな善行だと思っていることもあるわけです。

話を戻すと。
煽られた側が嫌な気持ちになったとしても、煽った側には悪意なんてありませんから、もし怒られたり注意されたりしても「どうして自分が悪いということになるんだ」という話になります。
「空気の読めない奴が悪い」という話になるかもしれない。

そうなってしまうと、いたちごっこです。

悪意がない悪行ほど、厄介なものはありません。

次に厄介なのは、善意のつもりの悪行でしょうか。
この場合は、日本語に『ありがた迷惑』という適切な言葉が存在していますから、相手に「その善意は間違っている」と伝えやすいのです。
少なくとも、悪意がない悪行よりかは対処がしやすい。


私が唯一『嫌い』になった人

この話は蒸し返さないと先方と約束をしているので、突っ込んだ話をするつもりはありません。
あくまでも一つの経験談として、いつも通り私の文章を紡いていこうと思います。

『嫌い』になるまでには、まあ何段階か、色々とありました。

先述した通り、私は人を、簡単に『嫌い』として切り捨てることができないので、最終的に『嫌い』にたどり着くまでの間、何度も相手を見つめ直し、自分を見つめ直し、嫌うことをを阻止しようとしていた、とも言えます。

発端は確か、些細な喧嘩で。
それでしんどくなって、一旦距離を置くことを、具体的な日付を設けて約束しました。

自分の中で整理をつけるためではありましたが、相手に冷静になって欲しいという気持ちもあったと思います。

けれど、その約束は呆気なく破棄されて、私の整理は中途半端なまま、相手も冷静さを欠いたまま、私は話し合いをせざるを得なくなったと思います、多分。(記憶が曖昧)

その時、私個人の生活面でも、仕事の休職や復職時期の話だったり、生活費の工面の話だったり、とにかく私はパンク寸前の毎日を送っていましたから、先方に回せるだけの気持ちなんてありませんでした。

結果、中途半端な話し合いで終わったのか、なんなのか、本当に記憶が抜けているのですけれど(おい

今度は、相手方が個人的に耐えきれなくて暴走していたというか、私との個人チャットをTwitterで晒すとか、関係のない周りの人に対して弁明する(いろいろ愚痴ってしまっていたので、事態をみんなに説明する目的?)だとか、とにかくもう「なんでそうなる!?」って感じの状況が続きました。

まあその辺はなんとか、第三者が上手く沈めてくれたようなのですが(記憶喪失)

最初の約束破棄からの、その後のいくつかの行動。
もっとそれ以前の発言とか、態度とか、そういうものも含めて、積もりに積もった結果、私の気持ちがプツンと切れました。

初めて人を、心の底から嫌いになったし、憎んだし、恨んだし、消えればいいくらいまで思いました。

今でも消えきらないくらいの、ドロドロとした気持ち。
もはや憎悪とか殺意とかの類ですよ、これ。

自分でもこんな感情を抱けるなんて、それも実在する人間に対して抱けるなんてと、恐怖しましたね。

少し、自分を嫌いになった出来事でもあります。


『嫌わない』という道はあったのか

結果的に、少なくとも私の力の及ぶ範囲では、嫌わないという道はなかったと断言できます。

けれど、もしも相手が約束を守ってくれていたらとか、関係のない人にプライベートを晒すような働きかけをしなければとか、そういう相手に対するIFは、いくつか存在していたと思います。

しかし、どちらにせよというか、何にせよというか、どう足掻いたところで、近い距離感を保つことのできた関係ではないと思います。

何故かって、ちょっと話が戻りますけれど、先方の行いはある種『悪意のない悪行』であるからです。

先述した通り、私はそういうことのできるタイプが一番苦手ですから、そもそも私と先方は相性が悪かったということです。

しかし、相性が悪いからといって関係が成り立たないということはなく、互いに上手い距離を保ったり、ちょっとの思いやりを持つだけで、成り立つことも十分にあり得ると思います。

その上で、結果的には離れていったのだろうとは思いますけれど、それでも、私が相手を嫌うことも、あそこまでの感情を抱くこともなかったとは思いますし、私が私を、ほんの少しでも嫌いになることもなかったと思います。


人を呪わば穴二つ

人を嫌いになると、自分のことも嫌いになる。
人を嫌っても何もないんだなって、本当に思います。

自分の格を下げているようにも思えるし、相手を貶しているようにも思えるし、共通の友人なんかがいた場合、その人たちにも気を使わせてしまうことになる。

けれど、嫌いになるなというのが無理な話だということも、十分分かっています。

きっと、私がたまたま気の長いと言うか、嫌いになることを避けようとする人間であるから、嫌いになる前にどうにかしようと思える・行動できるというだけで。

嫌いな人を極端に避ける人も、嫌いな人に対して攻撃的になる人も、嫌いだからとわざわざ何度も突っかかるような人も、実際にはいるわけで。

そういう方向に走っていってしまう人たち全員を、私が止めるということはできませんし、私がそうされる場合だってあるかもしれない。

これは私に限った話ではなくて、誰の身にも起こりうるようなことです。
唯一違うとすれば、『嫌う』という感情に対する価値観でしょうか。

でも、どんな価値観を持っていたとしても、『嫌う』という感情やそれによる行為が、相手のみならず自分自身でさえも貶めるということは、変わらないのではないかなと思います。

私は決して、嫌うなと言いたいわけではありません。
でも結果的に、そう言いたいのかもしれません。

嫌う前に、踏みとどまって欲しいとか。
嫌う前に、自分の気持ちと相手を分析して欲しいとか。

何であれ自分を貶めるのは、誰だって嫌でしょう?
嫌いな奴がためにとなれば、余計に嫌でしょう?

だから、誰のためでもなく自分のために、そういうことができる人が少しでも増えてくれたらな、なんて思ってしまうわけです。

今日はとても長くなってしまいました。
いつもの倍くらいはあるのかも。

今日はこの辺で。

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