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私が大切にするもの

こんばんは。
あれからどれくらいの時間が経ったのか、体感的に少し感覚がずれているような感じがしています。

ずれている。
どちらかというと、あまり時間が経った心地がしていません。

むしろ、あの時から時間が進んでいないような、自分が歩みを止め続けているような、何も変われていないような、そんな気がしてしまいます。
体調も、良くなっているのかどうなのか。なんとも。


社会で生きていく才能が皆無

私が仕事をしなければと思っている理由は、自ら「したい」と思っているというより、最低限人間として、というか動物として、生きている以上すべきことは「しなければならない」みたいな。
そういう、強迫観念に近いようなものだと思います。

みんながやっているからしなければ、という同調圧力でもあり。
人の道を外れたくない、という自尊心でもあり。

まあ、そういうことを考えているうちは、仕事ができるようにはならないんじゃないか、なんて思い始めてきましたね。

そんな風なことを言っているうちは子どもだとか。
いつまで経っても大人になれないだとか。

根本的に、自分の力で生きていこうという気概は無く、生きていたいという願望も希薄。
命に執着しておらず、自分に期待しておらず。
絶望的で破滅的で、全てをどうでもいいと思っていて、既に投げ出していて、自棄になっていて。

ただ、人の道を外れる自分を「ダメな奴だ」と叱責しつつ、そういう道を自ら選択した自分を「芯のある奴だ」と気に入ってもいる。

そういう、あまり一貫性のないような、少しめちゃくちゃで矛盾まみれの中で勝手に苦しんでいるアホだけど。
自分が気に入った自分を、なんだかんだ大切にしようとは思っていて。
何があっても曲げたくなくて、辛くても逃げたくなくて、自分から目をそらしたくなくて。

破茶滅茶。


人、生活、好きなこと、その他

ざっくりと、今の私が思う暫定的な、自分の中でのものやことの優先順位は、こんな感じだと思います。
何度も言いますが、少なくとも”今は”。

まずは、人。
家族、友人、恋人。それから、自分。
出会った人も、すれ違った人も、離れた人も、別れた人も。
出会わなかった人も含めて。

もちろん、その中で優先順位はありますが、例え全く知らない人や自分の嫌いな人・苦手な人だったとしても、あえて言葉にするなら『愛』みたいなものを持っているつもり、です。
余裕がなくなると、どうしても、うまくいかなくなってしまいますがね。

次に、生活。
自分の過ごしている家。その場所や、自分を取り巻く設備や環境などなど。
そういう、自分の生活に溶け込んでいて、当たり前になってしまっているようなものが無くなってしまうと、しばらくパニックになります。

これはもしかしたら、少し病気の影響があるのかもしれませんが。
いつも使っている物が突然壊れたとか、無くなったとか、そういう想定外にとても弱いです。すごく苦手。

こう言ってしまうと、結構幅広く、あれこれ何もかもが手放せない、みたいな感じになってしまいますけど。実際そうかもしれませんが。
ライフステージが切り替わると同時に切り離すだったら、だいぶマシかなぁって。

例えば最近だと、と言ってももう数年前の話になってしまいますが。
上京して一人暮らしを始めたり、生活保護を受け始めたり、施設に通い始めたり、逆に辞めたり、というのは一区切りだったかなと思います。

都度、金銭の振り分けバランスが変わったり、ラクに生活できるような小さなルールを作ってみたり。
例えば、衣服とタオルは日替わりで洗濯をする、なんてルールを作って生活しています。
きっかけは、身体を壊してしまい施設に全然通えなくなった時。何をするにも息切れをするようなしんどい生活だったので、毎日少しずつしか、家事ができなかったんですよね。出かけた日はご飯を作れないとか、ご飯を作った日は洗濯ができないとか。
それで、一番後回しになりがちというか、滞りやすかったのが洗濯だったので、少しずつの量を2,3日に一度洗濯をするようになったら、思いの外洗濯ってラクじゃんと思い、以来このスタイルで洗濯をしています。

次、好きなこと。
これは、その時々によって変わるし、好きなことが生活に溶け込み過ぎて、『生活』の項目の一つになってしまうこともあるりますね。
生活予備軍的な。

一番分かりやすいのは、習い事ですね。
フィギュアスケートとかバレエとか。最近やり始めたことですが。

前からやっていることだと、こうして記事をかくことも、好きなことの一つです。
好きだから続けているけれど、実はあまり優先度は高くないことだと思います。ただ、「するな」と言われたら困ってしまいますけれど。

最後に、その他。
まあこれは、私の興味外のこと、と言い換えてもいいです。
生活をしていて視野に入り込まない、好きなことでもない、限りなくどうでも良いこと。

パッと例が出てこない程度には、どうでもいいです。
興味のムラが激しい。


とにかく人を大切にしたい

先述した通り、私の中で一番優先度が高いのは『人』なのですが。

多分、私が仕事をしていたとして。
私のような病気の子どもがいたとして。

今にも死のうとしていそうな連絡が来たとか、救急搬送されたとか、警察で保護されたとか。
そういう事件が起きたとして。

そうしたら絶対、私は仕事を放り出して、子どものところへ行ってしまうと思います。

それが自分の子どもではなくとも、母も弟も祖父母も、離婚した父も。
親友も恋人も友人も。
私を頼ってくれたり、私しか頼ることができなければ、全てを投げ打って向かうと思います。

仕事をしていたとしたら、私の中で仕事は『生活』の一つになるか、独立したジャンル『仕事』として、新たな優先順位が付けられるか、のどちらかだと思います。
でも、『人』の優先度を超えることは、絶対にないと思います。

だから私は、私よりも仕事を優先した母の気持ちが、全く理解できなかった。
会社に迷惑をかけられないとか、社会人なら当然とか、もしかするとまだ私の知らない、或いは分かっていない、そういうお話なのかもしれませんが。

母は私に、「すぐに駆けつけられなかったとしても、助ける気がないとか、心配していないとか、そういうわけではない。すぐではないかもしれないけれど、絶対に駆けつける」と、言いました。つい先日。

言葉の上では分かったつもりですが、気持ちというか、頭でというか、論理的にというか。そういうふうに、『理解』はできていないと思います。
そして、精神的に、受け止め切れてもいない。

母にとっての優先順位はおそらく、保護されている私より、自分の生活なのだろうと、私は理解せざるを得ない。

私が何度も身体を壊し、その度に欠勤や早退をするからと、仕事を続けられなくなったら、もちろんそれはとても大変なことだと分かっています。私のところに駆けつけるどうこう以前の問題になってしまうと、分かっています。
加えて、保護されている私は、既に安全が確保されているから、後回しにしてもいい、優先順位を下げてもいい、という心理は、分からなくもない。理に適っている。

と、ここまで考えを巡らせたとしても、体感的にというか実際的に、自分より仕事或いは生活を優先させたという事実は変わらないわけで。
待っている間の私は、とても、怖かった。

救われないのかもしれない気がして、大切なのに大切にできない自分を傷物にしたくて仕方なかった。
自分の価値が、消えていく気がした。誰からも見放されたような気がした。

多分、寂しかったんですね、私は。


価値観は押し付けられない

私の精神状態がこうだったとしても、例え母と言え、感情、それから価値観を押し付けることはできません。

私が、私の価値観に踏み込まれたくないからです。
自分がされたくないから、母を含め、人の価値観には踏み込みたくない。

もちろん、それぞれのものの見方について、意見を交わすとか、求められているとか、逆に相手のものを自分が知りたいとか、新しい意見を取り入れることで自分の価値観を刷新したいとか、そういう場合は別です。

でも基本的に、押し付けたくない。
私のものの理解を正しいと思っていないし、間違っているとも思っていない。

私は私の生き方をしていて、誰かは誰かの生き方をしている。
それぞれの矜持があって、価値観があって、美意識があって、その上に自分があって、生きている。

どんな形であれ、誰かに害を及ぼす生き方出ない限り、尊いと思っているから、それを尊重したい。

だから、私も母のその選択を尊重したい。
自分の気持ちを差し置いたとしても、尊重したい。

同じ『人』でも、相手によっては、自分より相手の方が優先度が高いからこう思うのかもしれません。


今日も、まとまりのない記事になってしまいました。
それだけ、頭が働いていないのか、自分の中がめちゃくちゃなのか。まあ今は、その両方かなと思います。

もう少し、体調を戻すまでには時間がかかりそうです。


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