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私が一歩、進む間に

 通所する生活に慣れてきたのか、やっと体力が追いついてきて。
 目まぐるしいなと思っていた、大して目まぐるしくもない毎日が、普通に流れていくようになりました。

 健康への、大切な一歩。

置き去りにした心

 ここしばらく、過去のことをお話しする機会が多かったように思います。

 私は私の全てに関して、『今更』だと割り切ることにしています。
 過去の私は過去の私なりに、全身全霊を尽くし尽くしていたと思います。これ以上がないと自信を持って言えるほど、自分にできる全てを尽くしましたし、可能性のあることもしました。
 それでダメだったんだから、後悔なんてする余地がないんですよね。

 だから、自分の得た結果に関してできることは、全てを受け入れるか、全てを受け入れないか、究極的にはこの二択です。
 私の性格的に、現実逃避はあまり好きではありませんし、自分の生きてきた道を否定してしまったら、自分の存在を否定することと同じだと思っていますので、当然のことながら前者を選びました。

 とはいえ、全てを受け入れるってそう簡単なものではないんですよ。
 成長すればするほど、あの時の自分の視野の狭さや非力さに失望するし、自分以外の誰かへの期待だって少しはあったので、後々になって裏切られた気持ちになります。
 結局、私は『自棄』になることで、「”今更”そんなこと思っても、仕方ないよね」「もう”今更”どうだっていいよ」と割り切ることにしました。

 諦観しているようで、自分の心を過去のどこかへ置き去りにしているだけなので、本質的には成長を拒むとも言えるのかもしれません。

ひたすら前に進む

 人って、生まれた時は身一つでこの世界に来たはずなのに、死ぬ時はたくさんの『しがらみ』ができて、身一つでこの世界を去るのが惜しくなりそうですよね。

 生きていく過程でも、幼稚園や保育園の頃は、水筒と帽子さえあればどこまででもいける気がしていました。小学生でも、まあ臨海合宿・林間合宿等のクソデカリュックサックに荷物を詰めれば、家出してもどうにかなる気がしましたね。
 中学生になって、修学旅行の荷物収納の難しさを痛感しました。この頃から、ぐんと荷物が増えたのかもしれません。
 かと思いきや、私は高校生の頃、一度家出をしているんですよね。ぶっちゃけ、スマホと財布があれば、本当の本当に最悪、どうにかなるなと確信しました。

 今思えば、正常なのは中学までで、高校生は本気で切羽詰まって、色々なものを蔑ろにしすぎていたように感じます。普通、家出したいとは思えど、家出するまでにたどり着くことはありませんからね。
 とにかく、前に進まなくては、自分の未来を考えなくては、生きていく力を身につけなければ、と焦ってました。

 焦った結果、色々なものを捨てて、健康もリリースして、とても身軽になったはいいけれど、大切なものまで失っていました。
 自分の命が、どこか軽く感じてしまう程度には、失ってはいけないものを失ってしまいました。

 そこまでして前に進まずとも、立ち止まったって良かったはずなのに。

私の一歩、みんなの千歩

 あまり実感が湧きませんでしたが。
 2年前の私は、「ああ、専門や短大へ行った人は、今年から社会人かぁ」と焦りを感じていました。2年かけても、私は病気のままだったから。
 今年の私は、「ああ、大学へ行った人は、今年から社会人かぁ」と焦りを感じています。

 私が、4年かけて病気で居続けた時間、同級生たちはせっせと勉強して課題出して、バイトして遊んで、進級して、就活して、卒論書いて、卒業して、着実に前へ進んでいるんですよね。
 私だけとまでは言い切れませんが、私ほどに失敗し続けて、私ほどに何も変われなかった人はいないと思います。

 私は、4年かけて、再び施設への通所を再開しましたが、そんなのは社会復帰という長い道のりからしたら微々たるもので。
 私の一歩は、アリさんの一歩よりも小さく価値の無い、とてつもなく惨めなもの。

 私が一歩進む間に、みんなは千歩進んでいて。
 私が一歩進むたびに、九百九十九歩の差をつけられる。

 この虚しさが、わかりますか。

 それでも前に進まなければ、千歩の差が開いてしまうんです。
 だから私は進むしかない。

 何かを捨てなければ良かった。
 でも、捨てる以外の選択肢を選べなかった。

 悔やみ方を忘れた。どう悔やんだらいいんだろう。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。