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目を覚ます頃合い

こんばんは。
ちょっとお久しぶりですね。

調子の良い時間というものは、長続きしないものです。
逆に、調子の悪い時間というものも、長続きするものではないはずなのですけれども。

その中間、調子が普通くらいの時を、どれだけ充実させることができるかという部分が一番大切なのだろうな、なんて思ってみました。

さて、今日は『二十歳』の記事を書いていこうと思いますよ。


夢とか理想とか

私の夢や理想って、一体なんなんでしょうか。

思い返してみれば、小さい頃の私は『二十歳の私』に夢を抱いていたと言い換えることもできます。

当時は、二十歳を迎えれば大人で、誰だって仕事に就いていると思っていました。

一般的な大学卒業が22歳だなんて知りませんでしたし、逆に二十歳を超えても学生であることが有り得るとすら思っていなかったのかもしれません。

そうそう、先日、恋人と通話をした時、「小さい時、大きくなったら何になりたいって思ってた?」ってお話をしました。

恋人の回答は、なんだったか忘れてしまいましたけれど…。

私は、保育園の卒業式で「お花屋さん」と答えました。
おそらく、年長さんになって初めて、保育園の活動の一環として、アサガオやミニトマト、ナス、オクラなどを育てたからでしょう。

でも、それは卒業式当日のお話で。

私だけがそうだったわけではないのですが、保育園の子どもが持つ夢なんて、その日その時の気分によって変わるもの。

練習では、絵画造形教室に通っていたためからか「画家」と答えたり、ピアノ教室に通っていたためからか「ピアニスト」と答えたり。

本当に、夢がいっぱいあって、まさに5歳!って感じでしたね。


夢を具体的に描く

私が今まで、いろいろな人から言われてきたであろう「現実を見ろ」っていうのは、今思えば「夢を具体的に描け」ってことだったんだろうと思います。

「現実を見ろ」って、言葉の上では「夢なんか見るな」とも捉えられそうですけれども、結局、「未来の自分がどうなっていたらいいか」みたいな、理想を抱くことを求められるのです。

多少なりとも理想がなければ、進路を決めることは困難でしょう。

まあ、ほとんどの場合、理想を持っていたとしても、家庭・住んでいる地域・金銭・学力などなど様々な理由で、結局は叶わないということの方が多いのかもしれません。

しかし、その選択を一つ諦めたからといって、生きていく目的がなくなってしまって、絶望に打ち拉がれるような人は、むしろ稀でしょう。

人は同時に、いくつもの理想を持っているわけですから、これが無理ならこっち、こっちが無理ならあれにしようって、柔軟に理想のカタチを変えていきます。

初めはぼんやりとした理想だったはずが、そうしているうちに、これというはっきりとしたカタチを持ち始めます。

例えば。
最初は「人を助けられる人になりたい」という漠然とした理想だったものが、「医者になりたい」「ボランティアをしてみよう」「福祉系の大学へ進学しよう」のように、具体的なカタチを持つ。

そうなるまで、視野を広げること、物事を柔軟に受け止めること、自身を常に進化させていくこと。

そういう生きること全てが、いつの間にか、夢を現実的なものにするのだろうと、私は思うのです。


再び歩き始めた今

さて、私と心の病気との付き合いは、二十歳を迎えることで7年くらいになるでしょうか。

とくにここ3年くらいは、私の時間というものが止まっていたように思います。

しかし、今の私は、少しずつですが、再び歩みを進め始めることができました。

そこで、いくつか、夢を抱き始めています。

学びたいこと、なりたい職業、欲しい資格、やってみたいこと。
そのどれもを今すぐにはできなくとも、そのうち、必ず、やりたいなとは思っています。

いつか、そういうお話もしたいですね。
やりたいって話も、逆にできるようになったって話も。

そのためにも、前向きに生きていかなければ。

いや、逆ですね。
それがあるから、前向きに生きていこう。

私の歩む未来が、明るいものでありますように。


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