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春は萌、夏は盛、秋は繋、冬は凌

 長く無職をしていると、季節感というものを少しだけ忘れてしまいます。
 もちろん、服装やエアコンの設定温度は季節ごとに変わるのですが、『時が進んでいる』という実感がいまひとつというか。どこか、おいてけぼりにされたような寂しい心地がします。

春は萌

 春はよく、出会いと別れの季節なんて言いますが。
 大人になってみると、それも学生のうちだったんだなぁと感じさせられますね。

 長く勤めていた経験はありませんが、毎月誰かが入社して、毎月誰かが退社していくような職場でした。
 職場全体で見ればそんな感じだったというだけで、私の部署はあまり入れ替わりは多くありませんでしたが。全体ミーティングができる程度の、スタートアップ企業だったので、そういう密な関係を持ちやすかったのかもしれません。

 あとは勝手なイメージですが、新入社員が春に多いのは事実でしょうが、夏休みあるいは冬休みだけのバイトさんとかもいるでしょうし、別れとは少し違いますが、妊娠出産で休職される方は季節問わずいるでしょう。

 結局のところ、出会いと別れの季節といわれるのは、学生時代までなのかなぁなんて。

 ここまでは無駄なおしゃべり。
 ここからが本題。

 私の想像する春は、『萌(きざし)』という一字が一番しっくりきます。
 何かが起こる予感みたいな意味ですね。

 春は、木には葉が芽吹き、寝ていた草が立ち上がり、花を咲かせ、冬眠から目覚め、色々な生き物たちが活発に動き出して、元気付けられるから、何かが起こりそうなわくわくと、何かをしたい衝動に駆られます。

 出会いと別れだって、何かが起こる『萌』ですよね。

 だから私にとって、春は『萌』の季節。

夏は盛

 夏はシンプルに『盛』の季節ですよね。

 春に目覚めた生き物たちが、一番活発になる季節であるとともに、一番勢力を増す時期でもあります。
 蟻や蜂の巣は、夏が全盛期ですよね。たくさんの働きアリ・ハチを産んで、冬に向けてせっせと働いて、何かあればみんなで家を守って。

 私の育った場所は程よい田舎だったので、昼も夜も虫の声が聞こえていたのが今でも印象的です。
 昼は蝉を捕まえて、夜はカブトムシを捕まえたりする、お転婆娘でした。良い思い出です。

 また、その年に生まれた子が大人になって、生殖器を迎える季節が夏である場合が多いイメージですね。
 だから、つがいを求める時期でもあるのかなぁと思います。

秋は繋

 春に目覚め、夏に盛り、その流れで秋とくれば、次へと命を繋ぐ時期なのかなぁと思います。

 越冬をする動物たちは、その準備に取り掛かります。熊は冬眠場所を探すし、虫はご飯を溜めておいたり、腐った倒木などの中に身を埋めたりします。
 植物たちは、草を枯らして根だけで耐え忍ぶ種類もあれば、地面にべたっと這いつくばって、葉を残したまま春を迎えるものもあります。
 木は種類によりますが、種類や天候などの条件がそろえば、美しい紅葉を見せてくれます。

 あるいは、渡り鳥のように、暖かさを求めて大移動をする生き物もいますね。それもまた賢い生き延び方だなぁと感じます。

 だから秋葉、いつも少しだけ寂しくなる季節。
 『萌』を逃して、『盛』を楽しめなかった私は、何を繋げばいいのかしら、って。

冬は凌

 ほとんどの生き物にとって、冬は生きるか死ぬかです。
 日照時間が少ないので、植物は養分を多く作ることができません。秋に葉を落としてしまった植物たちは眠ったまま時を過ごします。それは動物たちにとっても、食料が少なくなることを意味しているため、巣篭もりの準備や脂肪の蓄えが無い限り、寒く厳しい冬を乗り越えることはできません。

 だから『凌』の季節。

 とはいえ実際は、冬の方が活発に動く生き物や冬に咲く花もあるし、むしろ冬を求めてやってくる渡り鳥(冬鳥)なんかもいるので、誰もにとって厳しい季節、凌ぎの季節ではないのかもしれませんけれど。

 じっと、静かに、時が流れて萌を待つだけ。

凶兆

 『萌≒兆し』という言葉はどちらも同じ読み方と意味を持ち、また『兆し』という時には、真逆の意味を持つ『凶兆』という言葉もあります。

 なんだか今年の春は、あまり良い萌に恵まれている気がしません。
 体調と気持ちが、全く別の方向を向いていて、自分が〜をしたい!と思っていても、身体はが全然ついてこない。回復させようと頑張れば頑張るほど疲れてしまう。

 今が動く時期ではない、という何よりもの知らせなのかもしれませんが。
 春ですからね、萌の季節ですから、私だって何かの出会いを求めるし、何かの変化と可能性と、良い未来を望みたくもなります。望むくらいは許してください。

 頑張っても無駄、頑張ったからといって上手くいくとは限らないし、頑張らなくてもどうにかなってしまう時さえある。そういう理不尽と不条理の中で生きているわけですから、そんなに深く考えない方が、いっそ上手くいくのかもしれませんけれど。
 私にはどうにも、そう生きるのが向いていないというか、苦手らしくて。

 常々何かを考えて、気分を落としたり、持ち直したり、体調に振り回されたり、上手く行ったり行かなかったり、笑えたり笑えなかったり。

生きているだけですごいんだよ

 生きるって、すごく辛くて虚しいですね。
 多くの人たちが新たなステージへと踏み出す春だからこそ思うことかもしれませんが、自分はどうしてそうなれなかったのだろうと、自責に駆られてしまいます。

 自分は、自分に対して、何かできなかったのか、と。
 自分は本当に、最善を尽くせていたのか、と。
 何を間違えた、どこが間違っていた、どうすればよかった。
 とにかく、私にできることを、できたことを、誰か教えてくれ!って、何かに縋りたくなります。苦しい。

 春と秋は嫌いです。
 萌という光には絶望しか持てないし、私が未来へ繋ぎたいものなんて持てていないから。
 いっそずっと夏か、ずっと冬で、いつでもチャンスがあるか、いつでも何もないか、そのどちらかの方がずっと心が穏やかでいられます。
 生きることに関して、何の責任も感じずにいられる。

 まあ、人間は愚かな生き物で、春夏秋冬どれをとっても同じように過ごせるよう、経済を回して食べ物を輸出入して空調を効かせて、自分を飼い慣らして生きているんですけどね。
 だから、私のこれも全て言い訳で、自分の人生に対する無力さを嘆いているだけなのです。

 今日の自分は何かできたかな。明日の自分は何をすべきだろうか。
 私は今まで何を学んできたんだろう。今でもその学びは生きているのかな。
 私の人生は、私の時間は、私にかけられた全ては、無駄だったのではないか。

 自分の存在を祝福できなくて、今の自分を赦せない。
 呪いたくなって、罰したくなって、それって何のため?って気持ちになって、よくわからなくて、でも確かに、私はとっても疲れていて、しんどくて、辛くて、苦しくて、何よりも虚しいが一番強い気持ち。

 生きているだけですごいんだよ。
 生きていることにありがとう。
 いつか私が、私に、そんな言葉をかけられる日が訪れますように。

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