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夏目漱石『こころ』を読む 第3回

上巻『先生と私』の第3章になります。

前回からだいぶ時間を開けてしまいました。

2章では、私と先生の出会いについてが語られました。
しかしまだ、出会ったというよりすれ違ったという方が適切で、先生と交流する機械はなかなか訪れません。


先生はいつでも一人であった。

鎌倉の海水浴場の茶屋ですれ違った先生。
「私」は、先生の後を追いかけましたが、結局、先生に声をかけることは叶いませんでした。

一体、いつまで平行線が続くのでしょう。


 私は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら賑やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその後まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。

私は先生に会うため、次の日も同じ時刻に浜へ行きました。その次の日にもまた、同じことを繰り返しました。

けれども、話す機会はおろか挨拶をする機会ですら、二人の間には起こることはありません。
先生の態度はどちらかというと非社交的でした。ある時刻に突然と現れ、突然と帰っていくのです。周囲がいくら賑やかでも、それを気にかける様子はうかがえません。

最初、一緒に来た西洋人は、その後一度も姿を見せることはなく、先生はいつも一人でした。


 或る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度振った。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間から下へ落ちた。先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。

ある時、先生がいつも通りさっさと海から上がってきて、いつもの場所に脱ぎ捨てた浴衣を着ようしましたが、どういうわけかその浴衣には砂がいっぱいついていました。
先生はそれを落とすために後ろ向きになって、浴衣を二、三度バサバサと振り、砂を落としました。すると、着物の下に置かれていた眼鏡が、板の隙間から下へと落ちました。

先生は浴衣の帯を閉めてから、眼鏡が無くなったことに気づき、急にあたりを探し始めました。
私はすぐ、腰掛の下へ頭と手を突っ込んで眼鏡を拾い出し、先生に渡しました。すると先生は「有難う」と言って、それを私の手から受け取りました。


私はこれから先生と懇意になった。

やっと「先生」と、言葉を交わすことができました。
とはいえ、ほんの偶然の出来事です。

しかしこの偶然お陰で、「私」と「先生」の距離は近くなっていきます。


 次の日私は先生の後につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已〈や〉めて仰向けになったまま浪の上に寝た。私もその真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。

次の日私は、先生の後に続いて海へ飛び込みました。
そうして、先生と一緒の方角に泳いでいきました。

200mほど沖へ出ると、先生は振り返って、私に話しかけてきました。
広く蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私たち以外、何もありません。強い陽光が、目のとどく限りの水と山を照らしていました。

私は、自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして、海の中で踊り狂いました。
一方先生は、ぱたりと手足の運動をやめて、仰向けになったまま波の上に寝ていましたから、私もその真似をしてみました。
そうして見える青空の色は、ギラギラと目を射るような痛烈な色をしていました。

「愉快ですね」と、私は大きな声を出した。


 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路を浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。

しばらくして、海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」と、私に聞いてきました。
比較的体力のある私は、もっと海の中で遊んでいたいと思いました。しかし先生から誘われた時、私はすぐに「ええ、帰りましょう」と快く答えたのです。
そうして二人でまた、元の路を浜辺へと引き返しました。

私はこれから先生と懇意になりました。
しかし、先生がどこに住む人なのかを、私はまだ知りませんでした。


これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。

だいぶ急展開でしたね。
先生の眼鏡を拾ってあげたことがきっかけとなり、「私」と「先生」の距離は格段に近くなりました。

3章、最後の部分になります。


 それから中二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。

あれから三日後の午後だったと思います。
先生と茶屋で出会った時、先生は突然、私に向かって「君はまだ、だいぶ長く、ここにいるつもりですか」と聞いてきました。
考えのない私は、こういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていませんでしたから、「どうだか分かりません」と答えました。

しかし、にやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に決まりが悪くなりました。だから、「先生は?」と聞き返さずにはいられなかったのです。

これが、私の口を出た『先生』という言葉の始まりでした。


 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内にある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖だといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際をもたないのに、そういう外国人と近付きになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

私はその晩、先生の宿を訪ねました。
宿といっても普通の旅館とは違い、広い寺の境内にある別荘のような建物でした。そこに住んでいる人が、先生の家族でないことも分りました。

私があまりにも「先生先生」と呼びかけるので、先生は苦笑しました。
私はそれを、年長者に対する私の口癖だといって弁解しました。

私は、この間の西洋人のことを聞いてみました。
先生は、彼の風変わりなところや、もう鎌倉にはいないという事や、色々な話をしてくださいました。また、日本人にさえあまり交流をもたないのに、そういう外国人と近付きになったのは不思議だといったりもしました。

私は最後に、先生に向かって、「どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せない」と言ってみました。
稚拙な私はその時、相手も私と同じような感じを持っているのではないかと期待していたのだと思います。だから、心のうちで、実際の先生の返事を予期できていませんでした。

先生はしばらく沈黙したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」と言ったので、私は変に一種の失望を感じました。


3章はここで終わりです。
4章からは、舞台が『鎌倉』から、『東京』へと変わります。


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青空文庫より
夏目漱石『こころ』(新字新仮名)


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