願えば願うほど叶わず。
こんにちは。
先日は本当に死にたくて死にたくてどうしようもなくて、でも死にきれなくて。
今日もまだ「死にたい」って気持ちが心の中をふわりふわり。
気づけば口から出ていたり。
そんな日々を過ごしております。
なんで死にたいんだろう?
自殺を決めたのに、決行できなくて。
自分はなんて情けないんだって思いながら、泣きながら。
とりあえず、恋人にLINEしました。
「死のうと思って、お薬大量に用意までしたんだけど、死ぬのが怖くなった」って。
そしたら、「まだ待ってよ。」「せめて自分と会うまで考え直して」って返ってきて。
「まともに生きることも、死ぬこともできなくて、苦しい」って返しました。
そしたら、「なんでいつも死のうだなんて思うの?」って。
すごく純粋で、簡潔な疑問。
私って、人を頼ることがとても苦手なんです。
だから今回みたいに、周りからしたら「突然死にたいって言い出した」「突然死のうとしてる」「突然すぎて経緯が分からない」って思われても仕方ないようなことが多い気がします。
恋人であっても例外ではなく、突然「死のうと思ったのに…死ぬのが怖くなった」なんて連絡をよこされて、びっくりしただろうなって思います。
本当に、申し訳ない…。
話を戻して。
どうして死にたいのか。
少なくとも私の場合になりますが、今の私は生活保護です。
ひとまず、私の望みとしては、「普通の生活」を送ること。
自分で働いて稼いで、家賃を払って、食費を払って、光熱費を払って、それなりの娯楽をして。
平々凡々な、ありきたりな、面白みのない、そんな生活でいいから、「普通の生活」が欲しいんです。
復職して生保を切れればいいのだろうけれど、私を取り巻く問題は、いろいろが複雑に絡み合っているようで。
現状だと、復職は無理だと思います。
できたとしても、半分は自棄だと思いますし、すぐに力尽きて今度こそ本当に死のうとするかもしれません。
「現状だと」なんて言いましたが、正直、一生かかっても「普通の生活」を「自分の力で」送ることができるようになれる気がしません。
そんな自分に、嫌気が差しているのです。
私にとって、生きることは難しい。
何をしようにも、失敗した記憶、言われた言葉、向けられた視線、それら全てが私の首を締める。
考えすぎって言いたいですか?
では、考えないようにしましょう。
考えてしまう余計な自分は、切り離してしまいましょう✂︎
辛い過去などなかった、辛い感情なんて微塵も知らない。
その結果、私は私ではない誰かに追われるような、責められるような、そんな日々を過ごしたことがあります。
医者曰く、多重人格のようなものだったそうですが。
それすらも、怖い。
幻だって分かってても、もう、何もかも、怖い。
認めたくないけれど
何をするにも、トラウマがついてくる。
誰だって生きていればトラウマの100や200抱えていると思います。
もしかしたら、毎日うなされても頑張れるというのが普通の人間なのかもしれません。
でも私は、それができない弱い人間です。
弱い人間なのに、たくさん傷ついてきてしまいました。
だから、もう、怖くて動けない。
自分が傷ついてるなんて、本当は言いたくないです。
だって、もっと傷ついてる人に失礼ではないですか。
それに、勝手に傷ついてきただけですから、被害者みたいな言い方をするのはおかしいです。
自業自得、でしょう?
でも、もう、生活保護を受け、精神病で通院し、薬を飲み、それでなんとか生活が成り立っているという現実からは、「弱い人間」だとか「傷ついてる」んだとか、認めざるを得ません。
ごめんね。
なんで死にたいんだろう?
再び。
私がもし、どんな形であれ「生きたい」と願わなければ、きっと「死にたい」と思うことはありません。
私がもし、何も望まない抜け殻だったのならば、与えられた人生を死ぬまで歩き続けることができたでしょう。
そこまではいかなくとも、大して心を動かされるような人間ではなければ、自分にとってどうでもいい願い事しかしなかったでしょう。
叶っても叶わなくても、どうでもよかったでしょう。
「普通に生きたい」と願うから、叶わないのです。
叶わないから、「死にたい」と思うのです。
普通に生きることには、なかなか手が届かないけれど。
死ぬことは、いつでも手を伸ばせば届く位置にあります。
緊急脱出装置のようですね。
そもそも、願ってしまう時点で、手が届かないということなのだから。
手が届かないからこそ、願うのだから。
手の届く範囲のことの中には、いつだって死がある。
手当たり次第に手の届く範囲の”何か”をしていれば、うっかり死を掴んでしまいそうになる。
おっと、危ない危ない。
願いって、どうすれば叶うのかな。
叶わないから、叶って欲しいと願うのでしょう?
願ってても、叶いません。
叶わないわけです。
どうやって叶えるのか?なんて、知るわけ。
逆に、願っても望んでもいなければ、棚からぼた餅みたいに、転がり落ちてくるのではないですか。
大半の人の人生なんて、きっと自分の人生に転がり込んできたぼた餅を拾ってるだけでしょう。
純度100%の努力なんて存在しなくて、少なくとも10%くらいはぼた餅だと思っています。
私だってそうですし。
今は、転がり込んでくるぼた餅を待ってます。
あーあ、ぼた餅転がり込んでこねぇかな!
ちょっと元気なnoteを投稿できてよかったです。
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