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『 か く ! 』


はじめに


「#なぜ私は書くのか」

これは、昨日締め切られた ”お題” である。

この記事を読んだとき、
2024年8月5日(月)が締め切り。
今日じゃん!運命か!?

と思った私は、夏休みボケしていた。
子どもたちがずっと家にいるものだから、曜日を勘違いして、この夏の暑い時期に、燃えるゴミをうっかり出し忘れてしまった。

そう、今日は
2024年8月6日火曜日である。

というわけで、エゴハッシュタグはつけているものの、作品応募とか、グランプリとか、準グランプリとかは、まったく関係なく書かせてもらう。

今日は6日だが、投稿は7日とか8日とかになるかもしれない。
ゆっくり書けて、逆にラッキー!?


そんな事を考えていたら、小6次男に突然こう言われた。

「今日って、”かく” の日だよね」

…は?

「8月6日、か・く・の・ひ」

か・く、で、”く” だったら、9日じゃないか?
と、私が語呂合わせを考えていると、

「かくが落ちた日」

!!!

ああ、そうか。「書く」ではなく「核」の日ね。
言い方、もうちょっと、なんとかならんか?

今日は、「広島平和記念日」。
日本の皆様、私は、日本国民として、まったく自分ごとに思えていなかったことを、ここに反省いたします。

しかし、「核の日に書く」か。

やっぱり、運命だな(笑)。


「#なぜ私は書くのか」


なぜ書くのか?それは…

そこに、「お題」があるからじゃ!


カミングアウトしよう。
私は、「お題」がないと書けない人である。
しかもそれは、書くために、自分から自主的に探したものではダメで、天から降ってきたもの、運命的な出逢いを果たしたものでないといけない。

たとえば、

知人で、毎日メルマガを配信してる人がいて、日々、ネタになるものを探していると言っていた。「あ、これはネタになるな」と思ったものはすぐに書きとめ、ストックしておくのだそうだ。

なるほど、やってみよう、と思ったけれども、秒でやめた。

アンテナを張っておかないと気がつけないもの、メモしておかないと忘れてしまうものには、熱量を注げない。

偶然は必然と思える出逢い、突如として訪れる閃きが、私を後押しする。
「これは書き残しておこう」と思い、いてもたってもいられなくなったものだけが、活字として、私の中から生まれてくるのである。

とはいえ、その熱量にも、大きいものと小さいものがある。noteに毎日投稿しようと思ったら、「今日はなにを書こう」と考えるし、まいどまいど、運命的な閃きが降ってくるわけでもない。

では、なぜ書いているのか。

それは、

アウトプットしたいから。

私は、インプットが好き。
特に、活字のインプット。
本を読むのもそうだし、ノートの投稿もとっても楽しく読んでいる。だけど、インプットすると、自分の中に落とし込んでよく咀嚼、反芻したあと、それを形にしたくなる。

形にして吐き出すと、自分の中に隙間ができるのか、またなにか欲しくなる。

この、インプットとアウトプットの循環で、どんどん作品を生み出していく、というのが、私には合っているような気がする。

読書感想文というお題


小学生の時、読書感想文が苦手だった。

本を読むのは大好きだったので、読書は苦にならない、というか、むしろ、自分から進んで楽しめるものだった。

ただ、感想を書け、と言われると話は別。
読み終わったあとの感想としては、「ああ、おもしろかった!」というものしか出てこない。

なにがどうおもしろかったのかと考えてみても、よくわからない。
全体的におもしろかったし、特にこの部分が!というのも覚えていない。

かくなる上は、内容を要約して、こんな話でおもしろかったです、と書く方法しか思い浮かばなかった。これって、内容をまとめただけで、ぜんぜん感想じゃないよな、手抜きだよな、と思っていた。

しかし、子どもたちの夏休みの宿題のために検索したところ、読書感想文の書き方としては、あながち間違いではなかったことがわかった。
なんだ、あれでよかったのか。早く言ってよ(笑)。

小学生の時に、あんなんでいいと知っていたら、もっと楽しく書けたのに。とっても残念。

しかし、要約力は、この、読書感想文を必死に書いたことで養われたのかもしれないなと、大人になったいま、子どもの頃を振り返ってみて思う。

いやいややっていたことでも、いまに繋がっていると思えるだけで、なんだか嬉しい。


赤点しか勝たん英語


なにを隠そう、中学から始まった英語で、まともな点数をとったことがない。
「異国の言葉」であっても、言語である。
”英語” は大好きだった。
しかし、いかんせん、暗記が苦手な私は、単語がちっとも覚えられなくて難儀した。
ヒアリングのテストに関しては、「この言語はどうやら英語らしい」くらいのことしかわからなかった(ネイティブを聞き取る練習などしていないのだから当然だったと、いまなら思う)。

昔と違って、小学校から外国語に親しむ授業があるいま、なんだかとっても楽しそうで羨ましい。
小学生に混じって、もう一度やり直したら、私も話せるようになるんじゃないかと、実現するはずもない夢を見ている。

そんな私が高校3年生のときのこと。
スピーチコンテストがあるから、英語で作文を書くようにと宿題が出た。
万年英語赤点の私が、優秀な作品を残せるはずもない、とは思っていたのだが、どうしても書きたい内容が出てきたので、辞書を片手に、熱中して一所懸命とりくんだ。
赤点とり虫の私にしては、よく頑張ったと思う。自分的には満足の出来だった。

提出した英作文が返ってきたとき、意外にも手直しが少なかった事に驚いた。が、返却のときの一言に落ち込んでしまった。
題名がイマイチだと言われたからだ。
フリーズした頭で妙案を捻り出そうとしたが、いい題名は思い浮かばず、結局、そのまま、クラス発表の日が来てしまった。


ひとりずつ前に出て、自分の英作文を読む。
題名にも、内容にも、発音にも自信のなかった私は、小さな声で、みんなに聞こえないように、英作文を読んだ。

クラスメイトから、声が小さすぎて聞こえないとクレームをもらったが、聞こえないように読んだのだから、ばんばんざいだ。

全員が読み終わり、英語の得意なクラスメイトが、クラスの代表としてスピーチコンテストに出ることが決まった。
無事、授業が終わり、私がほっとしていると、教室を出ようとしていた先生が、私に声をかけた。
「あなたのが一番良かったのに。もう少し大きな声で読んでくれると思ってた」

 



なんですって!?



もっと早く言ってよ!!!


私に毎回赤点くれてる先生なら、上手に読めないことぐらい、予想できるだろぉおおお!!!

と思ったのは後の祭り。

苦手なものでも、伝えたい気持ちさえあれば、「よかった」って言ってもらえる文章が書けるものなんだなぁってことに、初めて気がついた秋だった。

小論文しかやりません


現役で受験した、とある大学の試験問題が楽しすぎたので、「絶対にここに行く!」と、試験会場で心に誓った私。

結果は見事に落ちていたのだけれど、一浪して、翌年に、その大学だけ受けることに決めた。
受験科目は、一般常識と小論文のみ。

受験科目に小論文のなかった姉の、使わずに残していた教材が家にあったので、それで勉強しようかな、と思っていた。

そんな話をいつしたのかも覚えていないのだが、担任でもなんでもない現国の先生が、「そんなら俺が添削してやろうか」と、なぜか名乗りを上げてくれた。

卒業後も予備校には通わず、アルバイトをしながら、夜な夜な小論文を書いては、片道20分の道のりを、自転車を漕いで学校に向かった。

教材には、毎回「お題」が書かれており、そのお題にそうような内容を考えて書いていた。
新しく書き上げた物を持っていくと、前回提出した添削済みの小論文を返してくれる、という段取りである。

私は、卒業しているのに、毎回、見てもらうのが申し訳ないなと思っていたのだが、先生は、私の文章を楽しみにしてくれていると言ってくれた。
「へー、こんな考え方するんだなっていうのがわかっておもしろい」らしい。

小論文を書くのは、毎回楽しかったし、自分が楽しく書いたものを、楽しんで読んでくれる人がいる。
一方的にお世話になっているわけではなく、持ちつ持たれつな関係なのだとしたら、こんな素敵なことはない、と思った。

憧れは、映画みたいな物語


1年間、小論文の勉強しかしなかった甲斐あって、見事、念願の大学に合格することができた。
そこでは、必須の授業に脚本の勉強があり、毎週、文章の提出を迫られた。
内容は、お題として出されるキーワードを2つ使って、400字詰め原稿用紙2枚程度の物語を書くというものだった。

これが、とっても楽しかった。

まったく関連のない2つの言葉を、どう料理して物語を組み立てるか…。
私の場合は、もやっとした物語の輪郭が、頭の中で徐々に整えられていき、形になってから、一気に書き上げるスタイル。
提出前夜、徹夜してかき上げるのが常だった。

物語を創造する楽しさを知り、いつしか、映画のような、ひとつなぎの長編物語を書いてみたいと思うようになっていった。


ポエム上等


大学を卒業し、一般企業に就職した私は、「仕事で必要な書類」以外の文章作成をしなくなっていた。
しかし、仕事を辞め、子育てに専念しているいま、新たな情熱が再燃している。

それは、コミュニケーションツールとしての文章術。自分が思い描いた世界を、誰かが喜んでくれる。自分の考え方を伝えることで、誰かの生き方のヒントになる。誰かの居場所を作ることができる。そんな機能を、言葉は持っているのだなと実感している。

いまお世話になっているコミュニティで、写真家のお友達がいるのだが、彼女の作品を見ていたら、一つの詩が思い浮かんだ。

その作品とは、ススキらしき植物が風に吹かれている写真。

ススキといえば、お月見の時に飾りたいアイテム。以前、引っこ抜いて持ち帰ろうとしたが、根っこがしっかりしていてちっとも抜けないし、茎が丈夫で、途中で折ることもできなかったのを思い出した。

そこで、”(強い意志で)ここを動かないけれども、私はあなたの成功を願っている、この風があなたの追い風になればいい” という旨の詩を書いたのだ。

すると、その詩を読んだ友達は、とても喜んでくれたのだが、同時に、とても驚いていた。
実は、その写真は、ナポレオンのお墓のある庭の風景写真だったのだ。

「なんでわかるのぉ!って思った。ナポレオンの追い風って、すごいよね」

友達はそう言ったが、私は別の偶然に思いを馳せた。
詩を書く上で、「(動きたくても)動けない」ではなく、「(自分の意志で)動かない」にしたいと思ったのは、きっと、ナポレオンの強い意志の現れだったのだろうな、と。


広がれ!noteの世界


私は、2024年7月15日から、noteでの執筆を始めた。まだ1ヶ月にも満たない初心者で、未知数なところだらけだが、それでも、やっていてとても楽しい。

いろんなクリエイターの作品に触れることができるのも、その作品を見て、直接コメントできるのも、自分で作品を仕上げて投稿するのも、”みんなのフォトギャラリー”にある写真やイラストを選ぶのも、全体ビューがどれくらいか確認するのも、「スキ」を貰えるのも、みんな、みんな、私の糧になっている。

インプットもアウトプットも同時にできて、しかも、ダイレクトに反応がわかる、こんな素敵な仕組みがあるなんて、いままでぜんぜん知らなかった。そしてここには、私にとって、書くために大切な「お題」がゴロゴロ転がっている。

エベレストになぜ登るのかという問いに、
「そこに山があるからだ」
といったのは、登山家のジョージ・マロリー。

なぜあなたは書くのかと問われたら、
「そこにお題があるからだ」
と、私は言いたい。

いつでも新鮮な「お題」を与えてくれるnoteは、私にとっての最適な場所。

そして、今回、「#なぜ私は書くのか」という、とんでもなく素敵なお題と出逢えたのは、やっぱり運命だと思ってしまう。

なぜって、いま、note私史上最長の長文を書いている。こんなに長くなるなんて、誰が考えた!?

だって、もうすぐ5,000文字!
何を隠そう、私が一番ビックリしている。

こんな長文、デジタルだから、一気に書けるのだな。直筆だったら、とっくに根を上げている。

さて、この熱量、うまく伝えられたのだろうか。


ここまで読んでくださった奇特なあなた。
なんと御礼を申し上げたらいいのやら。

この素敵な出逢いにも、心からの感謝を贈ることにする。


                                   Special thanks for you !〈R〉

イギリス出身の登山家
ジョージ・マロリー


#なぜ私は書くのか


一生、手元に置いておきたくなるような詩集を作りたい。 こころが折れそうなときに力をくれる絵本を作りたい。