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工藤純子著『サイコーの通知表』(講談社、2021年)が問いかけるもの

学校との関わりは、気がつけば半世紀。教えられる側、教える側、保護者の立場と変遷してきたものの、人生の大半が学校教育とつながっていたことに驚く。長いだけに教育について思うところは多々あるのだが、とりわけ内申点を笠に着る教師と否応なしに服従するしかない生徒の力構造を疑問に思ってきた。

教師だって人間だから万能ではないはずだ。にもかかわらず、生徒は成績をつける先生を前にすれば多少の理不尽があっても辛抱するしかない。それが教師の横暴を加速させる悪循環。もっともそんな悲惨な状況は滅多にあってはならないことだけれど、半世紀の間にかなりの頻度でそんな場面に遭遇してきたことも事実だ。

だから勤務先で学生による授業評価を導入する流れになった時、いち早く私は賛成した。たまたま教務委員だった時期と重なり、米国の先進事例を参考にたたき台を作成する役目も担った。前置きが長くなったが、教員は学生を評価するだけでなく、その授業を学生から評価されるべきと考える。それは大学のみならず中高はもちろん小学校でも高学年なら十分可能と思う。 ・・・といった具合に私なら書いてしまうのだが、「児童文学だとこんなふうに感動的かつ示唆的に書くことができるのか」とほれぼれしたのが本書。

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工藤純子著『サイコーの通知表』(講談社、2021年)

これを読んで、それぞれのクラスで先生のオリジナル通知表をつけてみるといい。子どもたちは大人が思っている以上に、よく大人のことを観察しているものだ。意外にも正当に評価してくれることも実感できると思う。

ついでながら、本書後半が感動的で久々に思い出したのがこちら。当時2週間だった私の教育実習(中学)に色紙の形で評価が返ってきたもの。もちろん色紙だから評価は甘すぎるし殆どがエールだけれど、いかに教える側の教師が生徒から教えられる存在なのかを実感した初めての経験だった。(個人情報消去済み)

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大人が指導者として教え導き子どもの成績をつけることがあっても、人間として両者は対等であるべきなのではないか。本書を読んで改めてそう思い巡らしている。


📙追記📙
この度、伝吉さまが当記事を素敵なマガジンに加えてくださいました。重ね重ね、どうもありがとうございます。工藤純子氏のご著作からは、学校をこどもたちにとって良い場所に変えたい本気度が伝わってきます。『だれもみえない教室で』『あした、また学校で』等、ぜひご一読ください。