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宮沢賢治

あなたの好きな宮沢賢治の作品は何ですか?

1銀河鉄道の夜
なんと言っても賢治の最高傑作であり、長編で読み応えもあります。美しい世界観が横溢しています。夏の天の川を渡る銀河鉄道のイメージはなんと美しいことでしょう。
ジョバンニとカンパネルラと一緒に読者も銀河鉄道の銀河の旅へ誘われます。

2注文の多い料理店
二人の素人の猟師が森で迷子になってしまいました。そこに不思議な料理店が現れます。
西洋の古い寓話のような創作とは思えないほどの構成感があって、恐ろしくも可愛らしいお話でファンが多いです。

3セロ弾きのゴーシュ
セロとはチェロのことですが、ゴーシュは金星音楽団と団員です。団長に叱られた日の夜、次々と動物たちが訪ねています。ゴーシュは夢中でセロを弾きました。

4よだかの星
よだかは、実にみにくい鳥です。という書き出しがなんとも言えません。このような主人公の描写から始まるのはなんとも可愛そうです。しかし、そんなよだかに想いを寄せてしまいます。

5風の又三郎
風の又三郎は転校生なのですが、なんとも言えない不思議で、幻想的で、子どもの世界特有のキラキラとした時間がそこにあります。

宮澤賢治のキーワード

イーハトーヴ 岩手県をモチーフにした理想郷。
モリーオ市 盛岡市をれんそうさせます。ポラーノの広場の主人公が勤める博物館があります。
心象スケッチ 詩集「春と修羅」は心象スケッチと題されています。
法華経 賢治は法華経を信仰しました。
羅須地人協会 賢治は花巻で農民を集めて農業技術や芸術を教えました。
オノマトペ どっどどどどうど どどうど どどう、など擬音が多用されます。
エスペラント語 ポーランドの眼科医ザメンホフが発表した人工国際語。賢治が学びました。
 賢治は子どもの頃、石っ子賢さんと呼ばれるほど石が好きでした。晩年は東北砕石工場技師になりました。
セロ 賢治はチェロを弾きました。記念館にそのチェロは残っています。現在のN響のチェロ奏者を東京で訪ねて指導を願いました。
四次元 賢治はいわゆる理系の発想がありました。科学者でした。四次元は日常の三次元を超えた幻想の心象とも考えられます。
岩手県立花巻農学校 賢治はこの農学校の教諭でした。

『銀河鉄道の夜』の魅力

まず、書き出しが最高です。少し読んでみましょう。

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。

教室というのはどこか白昼夢を誘う場所です。(わたしが勉強が嫌いだっただけというツッコミはなしで)先生の声も遠くなります。先生は星空と宇宙についての質問をしています。この唐突にセリフから入る導入のなんと奥深く、鮮烈なことか!

これから銀河の旅が始まろうとしているのです。もう幻想の入口、四次元空間に片足を踏み入れてしまっています。ほんとうに奇跡的な小説だと思います。

雨ニモマケズを読んでみましょう

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

農民芸術概論綱要

なんだか真面目な規約文書のようですが、非常に理想的な詩のようでもあり、大真面目に団体の倫理綱領のようなものでもあります。

賢治は1926年、昭和元年に花巻農学校を退職し、羅須地人協会の活動を始めます。30歳でした。この綱要は羅須地人協会のために書かれました。

「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」

という有名な文が含まれています。この考えは多くの賢治の作品に通底しています。

宮沢賢治の生涯と作品

明治29年(1896年)−昭和8年(1933年)37歳没現花巻市に生まれました。
家業は質・古着商です。
5人兄弟の長男で、弟が1人と妹が3人
作品にとって重要な妹にトシ、弟に清六がいます。
父・政治郎は熱心な浄土真宗の信者という篤信家の家に育ちました。

小学校の先生から「家なき子」など童話を教えられた。また、鉱物、植物、昆虫採集、標本作りに熱中し、家の人から「石っ子賢さん」と呼ばれました。

岩手県立盛岡中学校の中学生になると、岩手山に登ったり、盛岡市北山、願教寺の「仏教夏期講習会」に参加しました。
「歎異鈔」を読み感動しました。
石川啄木に影響を受けた短歌を作り始めました。

中学を卒業すると、鼻炎の手術を受け、熱が下がらず、発疹チフスの疑いで入院しました。病院の看護婦に想いを寄せ、結婚を申し込みたいと言いましたが、両親に反対されました。

妙法蓮華経を読み、その中の「如来寿量品」に体が震えるほどの感銘を受けました。

盛岡高等農林学校に主席で入学すると、寄宿舎「自啓寮」に入寮しました。
土曜、日曜は登山、鉱物標本採集をしました。

同人誌『アザリア』を創刊。
童話の制作を始めました。
童話「蜘蛛となめくじと狸」、「双子の星」

盛岡高等農林学校卒業。研究生となりました。
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受けました。
盛岡高等農林学校研修生修了。
国柱会に入会しました。
父に改宗をせまりました。
上京し、校正、筆耕の仕事に就きながら国柱会の街頭布教や奉仕活動をしました。

妹のトシが病気になり帰郷しました。

大正10年(1921年)25歳 稗貫郡立稗貫農学校(のちの県立花巻農学校)教諭に就任しました。

「あまの川」「雪渡り」「竜と詩人」「かしはばやしの夜」、「鹿踊りのはじまり」、「どんぐりと山猫」、「月夜のでんしんばしら」、「注文の多い料理店」、「狼森と笊森、盗森」「小岩井農場」「イギリス海岸」など多くの童話を創作。

大正11年(1922年)26歳
11月妹トシ死去。「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」を書きました。
その後、大量の作品を書きました。

童話「やまなし」、「氷河鼠の毛皮」、「シグナルとシグナレス」「風野又三郎」
詩集『春と修羅』第二集
心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。

農学校生徒と「飢餓陣営」、「植物医者」、「ポランの広場」、「種山ケ原の夜」を上演、一般公開。

イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。

「銀河鉄道の夜」

30歳で、花巻農学校を依願退職。
羅須地人協会の活動を開始しました。

チェロを持って上京。上野図書館やタイピスト学校で勉強。オルガン、チェロの練習、エスペラントを学習。

32歳で急性肺炎になり、その後、1年以上、病床に伏せました。

昭和6年(1931年)35歳
東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受け持ちました。

童話「北守将軍と三人兄弟の医者」「風の又三郎」石灰宣伝で上京中に発熱、遺書を書きました。
帰郷、手帳に「雨ニモマケズ」を書き留めました。

昭和7年(1932年)36歳
「グスコーブドリの伝記」を発表。

病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じました。
法華経一千部を印刷して知人に配布するよう父に遺言して、死去。

所感

宮沢賢治に感じるのは渇望感です。なぜこれほど生き急ぐのでしょう。中学を卒業した頃、入院し、看護婦に恋しますが、そういうことはよくあることかと思います。しかし、両親に結婚の許可をもらおうとするほど真剣であるというのは、ちょっと困った人だと思います。看護婦の女性は知っていたのでしょうか。
そして、賢治の生き急ぐ渇望は宗教と創作に向かいます。長男故に父との確執があり、宗教上の対立になります。賢治にとって法華経は生そのものだったでしょう。また、国柱会に入り、献身的に組織の宣伝活動をするのも意外です。この団体は日蓮宗法華宗の右派団体で、大日本帝国の国家主義スローガンである八紘一宇を最初に唱えた団体です。会員に満州事変を起こした石原莞爾がいます。どうも宮沢賢治のイメージに結びつかないのですが、法華経にも様々な流派があり、賢治が法華経の何に真実を求めていたかは、作品にあたるのが一番だと思います。
わたしが好きな作品は『ポラーノの広場』です。中学1年のときに読みました。この詩的幻想の世界がわたしの中にリアルに実在します。子供の頃読んだときはさほど気にしなかったと思いますが、最後に共同してハム工場をつくり暮らしていこうということになるところが、実際の賢治のやろうとした羅須地人協会などと重なります。資本家と労働者の対立といったことが、社会主義のような理想を思わせますが、前の国柱会の右派思想とはまた結びつきません。しかし、賢治のなかでは一貫性があることが、作品を読めばはっきりとわかっていきます。他者のために生きる、自然とともに生きる。宗教的な精神性をもって生きる。芸術とともに生きる。そういったことが一貫しています。



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