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読書日記②『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』vol.3 ー委ねるという自由ー

noteの読書日記は少し間があいてしまいましたが、ちびちびと大事に読んで、ついに読み終わってしまいました。名残惜しい。今日も書いていきます。

ジンをつくることの喜びは、文章や写真はもちろん、編集もデザインもフォント選びも、どんな紙を使うのかも、ぜんぶひとりで決めることができる、というだけじゃない。(省略)わたしの内側を丸ごと相手に差し出せるような、それをそのままちゃんと受け取ってもらえるような、どこか完結した安心を含んだ喜びだ。

『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』p106

でもある日、とあるtwitterの投稿を目にしてどきっとしてしまう。書店にずらりと並ぶ本を書く人のその投稿には、装丁家やイラストレーター、編集者、校正者etc……への愛に溢れる謝辞が書き連ねられていて、わたしはそれを読みながらいつの間にかおんおん泣いていた。
(省略)
たぶん、わたしはずっと、さびしかったのだ。さびしかったし、疲れていた。永遠に慣れない営業メールを書くことに。断られるかもしれない!とびくびくしながら書店まわりをすることに。ほとんど自分の分身みたいな作品を、自分の言葉でだれかに売り込み、認めてもらわなくてはいけないことに。
(省略)
わたしはこれまで、自分でつくった「完璧な世界」をだれかに届けるだけで、じゅうぶん人とつながれるんだと思っていた。でも気づかないうちに、わたいしはもっと広い世界から、自分のことを締め出してしまっていたのかもしれない。

『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』p106-107

わたしも、この「さびしさ」と「疲れ」に心当たりがありすぎた
最初に「さびしさ」に気づいたのは、演劇に触れたことがきっかけだった。

影響を受けるのも、与えるのも怖い自分。その恩恵で、直接的に誰かを傷つくことも、誰かに傷つけられることも少なかったかもしれない。けれど、付随するこの分かりづらい「さびしさ」は、じわじわと、でも確実に、わたしの心身を不自由にしていたように思う

自分で全て準備して自分でやってしまうほうが、予測不可能なことが起こる可能性は少ないし、ぜんぶひとりで決めることができるという意味での「自由さ」はある。けれど、それは「わたし」と「他者(や環境)」を分断する行為でもあるのだと。わたしはそれを「さびしい」と思う人間なのだと。影響しあうことで傷つくことが怖くて、そんな感情に無意識のうちに蓋をしていたのだけど、気づいてしまったら、仕方がない。どうしてあげようか。

ほとんど自分の分身みたいな作品を、自分の言葉でだれかに売り込み、認めてもらわなくてはいけない「疲れ」のようなものも、風舟を運営するようになってから、それはもうすごかった。お客さんが来ない日は、「お前なんていらない」と言われているような気持ちになった。もちろん実際には、そんなことは言われたことはないのだけど、お店とわたしは一心同体なのだ。

それに加えて、一緒に「悔しいね」と言える温度感に誰もいないことがすごくさびしかった。「わたしがなんとかしないと」と思い詰め、でもどこを目指せばいいかも曖昧で、当然うまくいかず、一方でみんなが出来ることを出来る範囲でやってくれているのも十分分かっていて、だから余計につらかった。誰も悪くないから。お客さんや他のスタッフさんにもたくさん支えてもらってる部分があるなかで、「勝手に孤独になるな」と自分をぶん殴りたくなる気持ちも同時に沸き起こり、そんな板挟みに疲弊していた日もあった。いや、今も全然ある。どうにも癒やされない「さびしさ」と「疲れ」を罪悪感とともに抱えていた。

でもあの夜、イーノーはたしかに何度も<surrender>という言葉をくり返していた。それは主に、「降参する」、「諦める」といった受け身でネガティヴな姿勢を意味する単語だ。それでもこの言葉をあえて積極的に用いたとき、「他者に身を委ねる」という、とても健全でうつくしい態度に変わるーというようなことを、イーノーは語っていたと思う。それは、自分という枠を超えた、何か大きな存在への信頼にもつながっているのだと。

『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』p108

うわあ。「委ねる」というのがまさにわたしにとってもキーワードだったので、ページをめくってどきっとしてしまった。風舟のコンセプトのようなものを端的に説明するのが難しく、ならば対談ごと載せてしまえと、3年ほど前にも、「委ねるという自由」というテーマでちょうど対談している部分があったのです。(読み返すと、めっちゃ拙くて恥ずかしい笑)

ところでイーノーの講演のあと、一緒に聞きにいった先輩はこんなことを言っていた。「大切なのは、ただ身を委ねるだけじゃなく、自分のなかにある<control>と<surrender>のちょうどいいバランスを、常に見いだそうとする、そういう動きのある態度なんじゃないかな」。

『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』p109

こんな先輩隣にいて欲しすぎる。「そういう動きのある態度」というのがやけにしっくりきた。余談だが、私はあまりひとつのことを信じられない。常に「本当にそうかな?」とどこか疑う姿勢を持っている自分や他者に対して「身を委ねないといけない」とならないための、自分なりの処世術だと理解しているけど、わたしなりにバランスを見いだすために必要な動的な態度だったのだと整理できて、とてもすっきりした。

きっと、わたしにほんとうに必要だったのは、すべてをコントロールできるパワーじゃなかったんだろう。安心を感じるために、わたしが求めていたのは。それはきっと、ありのままの自分、手には負えない部分も含めたわたしのままで、それでも一緒に外側の世界をつくっていけるような、他のだれかの存在だった。
完全にすべてを手放さなくていい、委ねられないと思ったときにはそう正直に伝えたらいい、歩み寄り、一歩下がり、また少し近づいて。たぶん、信頼というものは、そうしたダンスのステップみたいな、常に変わりゆく小さなあいだの空間にこそ、育っていくものなんだろう。
(省略)
そしてそう、誰かに身を委ねようと思えたとき、わたしたちは、すでに自分がたくさんのものに支えられてここにいることに気づくのだ。

『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』p109-110

ひゃーん、泣きそう。心の奥にひっそり鎮座していた「さびしさ」や「疲れ」がちゃんと成仏している感じ

風舟をはじめるときのひとつの個人的なキーワードに、「ほどいて、むすぶ」というものがあったのだけど、これは、心の奥の方でこんがらがっている分かりづらい「さびしさ」や「疲れ」をほどいて、ちゃんと外側の世界へとむすんであげることを意味していたのだと思う。

改めて、わたしは「身を委ねたい」と思えたり、「身を委ねられていたかもしれない」という瞬間を風舟でつくりたいのだと思った。それは、自分がたくさんのものに支えられていることに気づく、「一生ものの余韻」になると信じている。

そして、そのプロセスは徒競走のようなゴールに向かって早く走る類いのものである必要はないのだと。ダンスのようなステップでいいのだ。前後したり、時に相手に身を委ねたり、委ねられたり、そういうものでいいのだと思えた。

あと、半年。まだまだやり残していることばかりじゃないか。
今ならもっと身を委ねられる気がする。
それと、後任の人とのステップで生まれる何かもありそうだなとも思った。

いいところだけど、ひとまず今日はここまで。


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