人は「個」として生きているが、「多」の中でしか生きられない。
第42回目の投稿です!
人は誰しも一人で生きています。
“自分が何をするか” “自分が何を思うのか” これらは全て自分が決めることであり、自分だけのもので誰からも支配されるものではありません。
僕が死んでも家族や友人は生き続けるし、僕の死など何事もなかったかのように社会は成り立つし、地球は回り続けます。
何が言いたいのかというと、
『人は誰しも「自分」という枠の中に生きている』
ということです。
自分の思考や感情といった精神は、自分の肉体の中にしか存在しません。
そのため、あなたが何を考えようが、何をしようが「自由」なのです。
好きなことを考えてもいいし、やりたいことをやっていいのです。
あなたの人生なのですから。
誰からもそれを否定や強要なんてされないし、そもそもそんなことをする権利なんて他人にあるはずかないのです。そのため、もし他人が邪魔をしてくるなら無視をしても良いのだと僕は思います。
では「何をしてもいいのなら、本当に何でもやっていいのか?」となるところですが、実はそういうことでもありません。
そううまくいかないのが現実です。(笑)
何故なら、人は社会に属することでしか生きることができないからです。
タイトルにある通り、
『人は「多」の中でしか生きられない』のです。
住む家には家を建てた人やオーナーがいますし、物を買うにも物を作る人や売ってくれる人がいるし、食べ物だって作っている人や運んでくれる人がいるのです。
なので僕たちが住んでいる現代では、社会の中に属することでしか生きられません。
もし仮に全て一人で行うとするならば、せいぜい洞窟に住んで、畑を耕す毎日でしょう。
安全も娯楽も存在しない厳しい生活となりますし、そもそもずっと一人で居ることで精神を保てるかどうかすら怪しいところです。
社会に属しているということは、必然的に役割や制限が生じてきます。
衣食住や娯楽、安全利便性といった “快適さ” の恩恵を受けるかわりに、社会に貢献しなければならないのです。
社会に属するならば、法律という制限に従い、人のために働き、経済を循環させる必要があるというわけです。
つまり、人が「個」であったとしても、何をしても良いというわけではないのです。
要するに何が言いたいのかというと、
「あなたが無理に周りに合わせたり、我慢したりする必要はないんだよ」ということと、
「あなたは人に貢献しなければいけないんだよ」ということです。
周囲の人たちによって追い詰められ、苦しい思いをしているのなら反発したって、逃げたっていいんです。
あなたが取る行動に対して、周りの人が文句を言うのならそんな文句は聞く必要もないんです。
けれども、もしあなたのやりたいことが他人に迷惑をかけることであれば、その時はその人としっかり話し合って折り合いをつけてください。
ただ自分の欲求を満たしたいがための行動で周りの人に大きく迷惑をかけるならば、その行動はやりたいことだったとしても控えるべきです。
迷惑をかけることは貢献することの真逆の行為なので、たとえやりたいことであったとしても社会に属する者としての相応しい行動に留めるべきなのです。
そこのバランスが難しいところではありますが、そうやって人は生きていくしかないのだと思います。
より豊かで誇らしい人生を送りたいものですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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