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絵と言葉の違い

私は絵を描くことが好きである。また、自分を表現する様々なことが好きである。言葉や文章、写真など。これは承認欲求の強さゆえだと思う。
また絵を描くことに限定すると単純に手を動かす作業が好きだということもある。
絵による表現と、言葉による表現は私の中で大きな差異がある。
大雑把に言うと言葉による表現が断定的なものになることに対し、絵による表現では含み的な表現や、無意識下の思考(右脳的な思考)を表現ができるということである。

私は小説をよく読むため、言葉による表現が断定的でないこと、また無限の意味を含むことを分かっているし、想像することはできる。しかし、自分が表現する立場になった際には言葉はどうしても断定的なものとなる。それは、私が言葉として表現したことについて、理解してほしいことや伝えたいことが明確であるからだと言える。そのため、伝わりきらないという思いが生まれることが多い。言い換えれば、私は言葉や文章により自分自身の感覚や、無意識下の思考(右脳的な思考)を表現することが難しい。「なんとなく伝わるでしょ」という感覚で言葉や文章を使うことができない。もちろん親しい間柄の人を除いて。

一方で私にとって絵を描くことは自分の中での言葉にはできない感覚や無意識下の思考(右脳的な思考)を表現できるツールである。また、意識的な思考も表現できる。
絵を描くと言っても、絵についての知識や技術はないため、ノートに落書きをする感覚で描くことが多い。つまり、言葉や文章よりも、よりラフに向き合えるものなのである。

いくつかの落書きについて考える。

①完全な右脳的思考による落書き

生命


このボトルの中に玉とその根、水分がある落書き。最終的に題をつけるなら「生命」であると考える。しかしこれを描き始めるまで私は、生命についての落書きをしよう!と考えていたわけではない。理由は説明できないが、コルクがはまっている瓶を描こうと考え、その中に水分を入れてみた。水分の中、そして瓶の中に囚われているものとして、感覚的にいのちを思い浮かべた。いのちとは、すべて小さな管により成り立っていると考え、根を描いた。



②感情表現としての落書き

帰宅後

これは、まさに言い表しずらい感情を表現した落書きである。誰かと共に過ごしたあと、日が沈んでから帰宅した時の感情で、孤独感も安心感も同時に感じている。また外出し、沢山の感情に出会い、考えたことによる疲労感や、充足感も感じている。安心感は、部屋が小さな箱であること、部屋に対する電球や、人間の大きさが表現している。大きな世界と、自分の部屋との対比、暗い外と、明るい室内の対比からなども同様。また人間の体勢からは、孤独感や、疲労感を表現している。



③思考表現としての落書き

宗教

これは宗教ということに関してかなり抽象化した落書きである。十字架が中心で光っているが、キリスト教に焦点を当てているわけではない。現在では宗教と呼ばれているものは、当時絶望感や孤独感を軽減させるための方法としてブッダやキリストなどが考えたものであると私は考えている。だかその死後、人々の欲望のため様々なことがすり替わって伝わっている。そのことは、下にいる人間たちが表現している。人間たちの虚な目や、上にいる人間が黒いのはそのためである。


④デザインとしての落書き

花たち

これらは、私が単にかわいらしい花の絵を描こうと考えて描いた落書きである。


以上のように、絵には様々な表現力がある。
絵にすることにより、理解してほしいことや伝えたいことを抽象化することができる。私は言葉として表現したことについて、理解してほしいことや伝えたいことが明確であるため、伝わりきらないという思いが生まれることが多いと先述した。
しかし、絵にすることによりその問題は解決される。
私は、私が描いた落書きに対して、理解してほしいことや伝えたいことは明確ではない。それゆえ、落書きを見た人がどんな理由であれ、どんな目的であれ、その落書きをすきだと言ってくれたら、私はそれで満足することができる。

これが私の中での絵と言葉の違いである。

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