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「写真」という偶然

写真は、「ドキュメンタリー性」と「デザイン性」という、二つの大きな柱から出来上がっている。あるいは、両方の極に向かって引き裂かれている。
などと、大上段から物を言う態度は傲慢とは思うが、それなりに長く写真表現に関わってきて今、あらためてその思いが強い。
別な表現を採るなら、「その場、そのとき」の出来事性の切り取りを重視するか、「美であること」を選ぶかの選択だ、とも。
もちろん、どのような写真も常に、これら二つの性質の混合物として存在する。例えば、植田正治やソール・ライターの遺した写真からは、「ドキュメンタリー性」と「デザイン性」の二極が、とても幸福な形で融合している姿を看取できる。

これら二極は、写真が、ジャーナリズムや絵画の分野に軸足の一部を置くことによって、生まれてきた資質と言える。
ならば、写真の、写真固有な性質は何かというと、「光そのものを物質的に捉えること」そして「偶然性への依拠」の二つだと、僕は信じる。前者は、どちらかと言えば技術的なイシューであり、後者は、写真を意味論的に考える場合に欠かせない問いとなる。それぞれ「どのように撮るか」と「何を撮るか」の謂いであると説明し直してもよい。
「どのように撮るか」が、かなりの程度、機材の設計者や撮影者の頭と手でコントロール可能な一方、「何を撮るか」→「何に出会うか」は(あなたが目の前で繰り広げられる現象に率直に向き合おうとするなら)完全に未知の世界だ。
何かを写真に記録しようとするたびに、無限に裏切られ続ける快楽。写真というメディアが持ついわく言い難い不可思議さ、人を惹きつけて止まない魅力は、間違いなくそこにある。どのような出来事に出会うかも、どのような美に出会うかも、誰一人予測できないし、選択できないし、決定できない。

ならば、できないものをこそ、楽しめ。

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