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わたしを守る、健やかに生きていくために必要なもの

生きていくうえで、生活を続けていくうえで、必要なもの。軸になるもの。これがあれば「大丈夫」な自分でいられるもの。


このものさえあれば、この人さえいれば、はたまたこの時間さえあれば。


それは家族や恋人という他者だったり、熱を捧げる趣味や仕事だったり、人によって答えは様々だ。選び取ったものの背景にはその人の価値観やバックボーンも深く関わっているだろう。


大なり小なり膨大な選択をし続けていく日々の中で、ゆずりたくない柱となるものを問われたなら、私はきっとこう答える。


おやつと、食と、自分の時間。

これさえ守ることができたのなら、最低限生活が回って、心の安定を保つことができる気がする。

昔から大人数で集まる機会があると、解散したあと必ずと言っていいほど一人で遠回りして帰るか、店に入ってお茶をした。休日に予定を入れるときはなるべく夕方以降は家にいられるようにする。仕事場でのお昼休憩は社内ではなく、わざわざ外の公園まで出て行くことが多かった。


私にはどうしてもひとりの時間が必要なのだ。


誰にも干渉されることのない自分だけの時間。外の世界の刺激で波打った心も、安全だと思える場所があれば、波はおさまり穏やかな海に戻ることができる。私にとってぜったいに欠かすことのできない大切な時間だ。



自分だけの時間をつくる糸口にもなってくれるのは、おやつの時間。


考えが煮詰まってきたとき、絶望に飲まれそうになったとき。やかんでお湯を沸かしてあたたかい飲み物を入れる。


最近自宅に置いてあるのはほうじ茶、ルイボスティー、紅茶、ハーブティー、ラベンダーティー、コーディアルシロップ。


北海道のファーム富田のラベンダーティーとミントティーは香りが良くてお気に入り。催事に出店してくださっている時に購入しておくのだけど、ティーバックひとつから買えるのがありがたい。


お気に入りはラベンダーのシロップ。

いろいろなハーブがブレンドされたcalmのコーディアルシロップも長い付き合いで、こちらも常備するようにしている。

ブレンドされているハーブの効能を調べてその日の体調や気分でシロップを選ぶ時間がすきだ。ひとつひとつにメッセージが込められていて、心が沈んだ時なんかに飲むお守り的な存在にしている。


あたたかい飲み物を注いだマグカップを両手で包み込めば、ぬくもりがじんわりと伝わってくる。ひとくち口に含めば体の中をあたたかいものが通っていくのがわかる瞬間が好きだ。


飲み物を飲んで、おやつを少しずつ口にして、落ち着く時間をつくりだす。

気力がないときや、胃の調子が悪くて何も口にしたくない日は白湯(ちゃんとした作り方はそれなりに手間をかけるらしいが、私の場合やかんで一回沸かしただけのただのお湯だ)だけを飲む日もある。


ちょっと一息入れようよ。一旦落ち着こう。の合図はお茶からはじまる。


これは私が食に関して強烈な執着をもっているからにすぎないと思うけど、やはり食事をすると元気が出るのだ。

胃が空っぽだと気力が出ないように、落ち込んでる時に温かいものを食べると涙が出そうになるように。食事は命と心に火を灯してくれるものだと思う。食べ物には何度も救われてきた。






これまでに自分が生活するうえで必要なものの話をしたけれど、近年、あなたにとっての幸福とは、と語りかけられる機会が増えてきたように思う。そのうちの一つにウェルビーイングという言葉がある。

ウェルビーイングーー心身、社会的に満たされた状態であること。いろいろな解釈の仕方があるが、要約すると上記の定義をよく見かける気がする。


肉体的、精神的、社会的に満たされている状態をウェルビーイングというのならば私にとってそれはとてもむずかしく、ハードルが高いようにも思える。


人生においてこれらすべてが平均的に満たされていた期間でいうならば細切れになった日数を足しても一年にも満たないだろう。

あまりにプライベートすぎる話をインターネット上に書くのは憚られるので濁して話をすると、私の人生はどの時期も常に何かが欠けていたように思う。



心身の健康を優先すれば社会的な居場所を失ったり、社会は自分の意思だけで安定を維持できたり希望が叶うようなやさしい場所ではない。すべてが満たされた状態であることは理想ではあるが、なかなかに夢物語である。


友人や家族にある程度の自信をもって話せるような生き方をしていたい。SNSで見かけるあの人がしているような働き方がしたい、得意なことで生きていける仕事がほしい。


言葉にすれば月並みのチープな言葉になってしまうが、昔から人並みに生きるのが難しいと感じていた私からしたら切実な願いだった。


心身の健康と社会的な居場所や力を確保するバランスをとることは悩みを抱えている当事者ほど困難なことのように思える。

一人として全く同じバックボーンや悩みをもつ人間はいない。誰も答えを教えてくれない暗闇のなか、手探りで道を探すのは孤独だ。何度も立ち止まったし、これからも模索していくほかないんだろう。


考え続けて人生を過ごしていくなかで、すべてを足並み揃えて平均点にする必要はないんじゃないか。レーダーチャートのすべての項目が最高到達点に達してなくてもいいんじゃないか?ということに思い至った。


あなたが比べているあの人とは生育環境も、思考も、置かれている状況も違う。比べるのは人ではなく過去の自分自身で、見るべきなのは本質で、問うのならば、自分が何を羨んでいるか、わかった結果からどう生きていたいかなのだ。

色々なものが見えすぎて、聞こえすぎる昨今。それでも人と比べて気を病むこともあるだろう。経験を重ねて自分が求める生活の比重が変わる時もくるだろう。

何をもって”いい状態”を指すのかは人によって違う。だからこそ、自分自身について理解を深め、体、心、社会性を自分の指針がさすちょうどいいバランスで心地よく過ごせていれば、それはもう健康に過ごせていると言えるのではないだろうか。





人の数だけ人生がある。正解も不正解もなくて、ただ最良を尽くし、これでいいのだと思えるように少しずつ目指す方向ににじり寄っていくほかないのだ。言葉にするといとも簡単で、それを信じ抜くのは容易ではないのだけれども。


最初に述べた通り、私はいろんなことがうまくいかなくても、おやつと、食と、ひとりの時間さえ守れればきっと地の果てまでは落ちない。きっとこのものたちが私の心を守ってくれると信じているし、今までも幾度となく生かされてきた。


自分自身に目を向けて見えてきた、大切にしたいもの。あなたが心から望んでいるもの。それを握りしめて歩いていけたらきっと健やかな生活が送れるのだと信じて、日々を重ねていけたらいいと思う。





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