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報復する男達(2)『グレート・ギャッツビー』F.スコット・フィッツジェラルド

私はかれこれ40年ほど前、とある女子大の英文科を卒業しているのですが、その当時の卒業論文のテーマがJ.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』とフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』、この2作品で全体の7割から8割を占めていました。私はサリンジャーの他の作品をテーマに選んだくらいサリンジャーにはドはまりしましたが、なぜかその当時はフィッツジェラルドは刺さりませんでした。最近になって読んでみて、なんとなく良さがわかって来たような気がしてます。

≪この投稿はネタバレがあります。名作は結末がわかっていても楽しめるというコンセプトで書いています。≫

概要

1920年に『楽園のこちら側』で成功を収めたフィッツジェラルドが1925年に発表した作品。モダン・ライブラリーが選ぶ『英語で書かれた20世紀最高の小説』の2位にランキングされている。T.S.エリオットやアーネスト・ヘミングウェイなどから絶賛を受けるものの発売当時は商業的成功には至らなかったようだ。
フィッツジェラルドはロスト・ジェネレーションを代表する作家として挙げられ、サリンジャーや村上春樹にも影響を与えたことでも知られている。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』とトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』と共に本作はイノセント(無垢)をテーマにした作品であると言われている。

モデル

フィッツジェラルドの小説に出て来るヒロインはみな似ていて、どことなく妻のゼルダを彷彿させる。この作品のヒロイン、デイズィも彼女がモデルかと思われたが、実際にフィッツジェラルドが交際していた別の女性がモデルであり、彼女の夫もトムのモデル、彼女の親友の女子プロゴルファーもジョーダンのモデルとなっている。
一方で、フィッツジェラルド自身もギャッツビーと同様に従軍中に知り合った妻ゼルダと婚約したものの経済的理由で婚約を破棄され、作家として成功した後に再び求婚して結婚に至った経緯がある。失った恋人を取り戻すというギャッツビーの心情は彼自身の思いが反映されていると言えよう。

背景

ニックやギャッツビーが住む「ウエスト・エッグ」はニューヨーク市グレートネックがモデル。デイジーとトムの住む「イースト・エッグ」はニューヨーク・マナセットがモデルの高級住宅地。ウエスト・エッグとイースト・エッグは入り江を挟んで向かい合っている。
トムが利用する自動車整備店があるコロナ・アッシュ・ダンプス(灰の谷)はごみ処分場で、かつての夢の島のような所。映画ではギャッツビーやトムの邸宅と対比するように荒廃した町の様子が映し出されている。

あらすじ

ニューヨークの証券会社に就職したニックはロングアイランドのウエスト・エッグに小さな家を借りた。対岸にあるイースト・エッグにはまた従妹のデイズィが家族と共に暮らしていた。ある日デイジーの家を訪ねた彼は、デイジーの夫トムに愛人がいることを知る。数日後あろうことかトムはニックを誘って愛人のところへ連れて行く。

ニックは隣人のギャッツビーからパーティーに招待される。当日邸に赴いたニックは主に挨拶をしようと彼を探すが、誰もギャッツビーの居場所を知らない。それ以前にパーティーに集まった多くの人は誰もギャッツビーのことを知らず会ったことさえもないとわかった。

パーティーで知り合いになったギャッツビーはニックにデイズィと再会する機会を与えてほしいと頼む。二人はかつて恋人同士だったが、従軍中のギャッツビーの帰りを待たずに彼女はトムと結婚してしまった。ニックの手引きで再会した二人は今でも愛し合っていることを確かめ合う。

やがてギャッツビーはニックとジョーダンを交えてトムにデイズィと別れ話の場を設ける。ニューヨークのプラザホテルで、ギャッツビーはデイズィは今でも自分を愛していると主張する。ところがデイズィの答えはあやふやで、トムはトムでデイズィとは別れないと主張する。そのあとトムとデイズィが激しく口論となり、デイズィとギャッツビーが先に車で帰路に着く。残りの三人も後を追う。

ロングアイランドに帰る途中、ギャッツビーの車をトムの車と勘違いした愛人のマートルが飛び出してきて、運転していたデイズィは彼女を轢いてしまう。ニックはギャッツビーに逃げるよう諭すが彼はデイズィを待つ。しかし彼女は来ない。マートルの夫ウィルソンはギャッツビーが犯人だと思い込み射殺し自らも命を絶つ。

登場人物

ジェイ・ギャッツビー(Jay Gatsby): ロングアイランド、ウエスト・エッグに豪邸を持つ謎の紳士。夜な夜な派手なパーティーを繰り広げる。
トム・ブキャナンの妻デイズィのかつての恋人で、デイズィを取り戻すために酒の密輸で巨万の富を築いた。
ニック・キャラウェイ(Nick Carraway):ギャッツビーの隣人で本作の語り手。イェール大学卒業後、従軍した後、証券会社に就職したのをきっかけにニューヨークに移り住む。穏やかな青年。
デイズィ・ブキャナン(Dsisy Buchanan):ギャッツビーのかつての恋人。ニックのまたいとこ。天真爛漫で美しいが軽薄で優柔不断なところがある。

トム・ブキャナン(Tom Buchanan):デイジーの夫でニックの学友。学生時代はアメリカン・フットボールの選手として名を馳せた。高級住宅地イースト・エッグに住む資産家。誰に対しても上から物を言う。
ジョーダン・ベイカー(Jordan Baker):デイジーの親友で有名な女子プロゴルファー。一時ニックともつきあう。自分の意思をはっきりと伝えるられる女性。
マートル・ウィルソン(Myrtle  Wilson):トムの不倫相手。ジョージの妻。
ジョージ・ウィルソン(George Wilson):トムが利用している自動車整備工。マートルの夫。灰の谷の住人。
キャサリン(Catherine):マートルの妹。

考察

これを初めて読んだ時は、ギャッツビーが可哀そうという思いが強く残った。しかし大人になってこれを読むと、彼がまるで子どものように見える。これがいわゆる無垢ということなのか?恋人の気持ちが変わらず自分にあるという思い込み、財産があればすべて上手く行くという思い込み。

富に対する幻想

ギャッツビーという人物が悪事に手を染めておきながら少年のように純粋であるためにピンとこないが、この物語は拝金主義に陥った若者の悲劇だ。現実的には法を犯して金儲けするような人が純粋のままでいられるわけがないと思うのだが…。フィッツジェラルドの小説は経済的コンプレックスを抱えた人物が実に多く登場する。

確かにお金があれば、たいていのことは成し遂げられる。『お金には代えられないものがある』と言われても、確かにそうだとわかっていても、やっぱりお金あったほうが得だよね~という気分になってしまう。現代人の多くもやはり拝金主義に多少陥ってしまっている。

青春に対する幻想

デイズィという女性は女の目からみてこれといった魅力もなくギャッツビーがなぜ彼女にこうも固執するのか不思議に思える。むしろ友人のジョーダンのほうが自分を持っていて魅力的だ。
では、ギャッツビーが今でも変わらずデイズィを愛しているのか?それについても甚だ疑問を感じる。というか初めから愛していたのだろうか?本当に愛しているのなら、まず相手の幸せを望むはずだ。

彼がデイズィに固執するのは、かつての経済的コンプレックスを払拭したかったことと、失われた青春を取り戻したいように思える。仮に彼女がトムと別れてギャッツビーと一緒になったとして…そこに幸せが存在するとも思えない。

『家族』という厄介なもの

違法行為で富を得たものが無垢のままでいられるなんて本来有り得ない事だろ。それでも、そこはフィクション故目をつむろう。ギャッツビーはひたすら愛してる(と思っている)女性を求め、正義(だと思っているもの)を貫く。そのひたむきな姿勢が読者の共感を呼ぶ。だが人生は愛とか正義とかだけでは成り立たない。

一旦夫婦になってしまった男女はそうそう簡単には別れられない。その理由は愛情でもあるし子どもでもある。仮に夫婦間の愛情が醒めてしまっても、子どもに愛着を持っていなくても、モラルとか世間体などもブレーキになる。ただ私は何かほかにあるような気がしている。日本人の得意な「縁」とか「しがらみ」とも一概には言えない。もっと別の何か。

どんなに愛し合った夫婦でも他人同士が生計を共にするには我慢や譲歩をしなければならない。そういった苦労や努力を積み重ねて維持してきたものを放棄することは、それまでの自分を否定することでもある。ギャッツビーにはそういった大人の感情が理解できない。

もしもギャッツビーが生き長らえたなら、彼も狡い大人になるしかなかっただろう。このも物語は彼が死ぬことによって永遠に無垢のまま存在し、青春を封印することで多くの読者の感情を刺激したのろう。




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