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生きるということ

何が正解で何が間違いなのかの線引きが曖昧になってきているこの世の中で生きているって何なのか。死ぬって何なのか。そんなことをふと考えてしまう。

死んでしまいたい。消えてしまいたい。居なくなりたい。そんな風に漠然と思ったことがある人は少なくないのではないかと思う。本当に死にたいわけでも、消えてしまいたいだけでも、居なくなりたいわけでもなく唯々現状がしんどくて辛くてでも何がダメなのか分からなくて、そこから逃げてしまいたいそんな感情から「死んでしまいたい。消えてしまいたい。居なくなりたい。」といった表現になるのではないだろうか。

誰もが不安や孤独を抱えている。漠然と抱える不安や孤独は、徐々に徐々に加速していく。それと付き合い続けるのは精神的にも肉体的にもしんどい。落としどころが見つけられないと永遠と苦しむことになる。その苦しみから逃れたくても生きている限りは逃れられない。

だからといって、飛び降りたり、飛び込んだり、首をつったりといった行動に結びつくわけではない。人生は、曖昧で抽象的で正解がないからこそ難しく、大学に進学して、大企業に就職して、結婚して子どもを持って幸せな家庭を築くことをロールモデルとすることでバランスを取ろうとしている。

1人1人「個」という物を持ちながらも倫理観や道徳、社会性、コミュニケーション能力を用いて「社会」といった得体の知れない何かのパーツとして生きていくことが最適解とされる。ある程度型にはまった人生を「生きること」と定義するのであれば、それは自我を捨てて呼吸をする「だけ」が生きるとうことになり、辞めてしまいたくなるのは仕方がないことなのかもしれない。

しかし、実際は孤独の中で自分の足で意志で歩き続けることが「生きること」であり、人生である。その中で、自分と向き合い、考え、自分なりの最適解を見つけることが大切である。「生きること」の本質を見ようとすればするほど複雑で難しく、見たくない物と向き合わなくてはいけなくなるから人は都合の良いことだけを見聞きし、信じ、重きを置くのではないのだろうか。

だからこそ、社会の歯車になりきるのではなく、そんな社会風潮の中でも自分というものを確立した上で相手の意見を受け止め尊重し、文化的に生活するのが「生きること」の本質であると個人的には思う。そのバランスが取れなくなった時に人は自覚のあるなしに関わらず人間は崩壊しかけるのではないのだろうか。

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