プレコックス感とその誤用

 プレコックス感 (Praecox-Gefühl) は医者が統合失調症(旧・分裂症)患者の診察時に感得する独特の奇異感を記述するためにリュムケ (H. C. Rümke) が提唱した術語である。リュムケは統合失調症をプレコックス感が随伴する真性統合失調症 (echte Schizophrenie) と随伴しない仮性統合失調症 (Pseudo-Schizophrenie) に大別し、真性統合失調症の鑑別の臨床上の重要性を強調した。
 精神疾患がバイオマーカーでは診断不可能な症候の総体である以上、診断は医者の所感に強く依拠する。ビンスヴァンガー (L. Binswanger) の感情診断 (Gefühlsdiagnose) もミンコフスキの (E. Minkowski) の洞察診断 (Diagnostic par pénétration) も精神疾患の非顕在性の病態の全体を捕捉するための診断モデルであるが、プレコックス感の有無を指標とする真性統合失調症の鑑別も同様に医者が患者から受ける全的印象を根拠とする診断方法である。なお、プレコックス感の名称はクレペリン (E. Kraepelin) が提唱した統合失調症の旧称・早発性痴呆症 (Dementia praecox) に由来する。
 プレコックス感は上記のように本来は統合失調患者に随伴する独特な印象を意味する術語であるが、インターネット上で交流する精神疾患罹患者とその予備群(通称・メンヘラ)の間では発達障害者に随伴する独特な印象(主に自閉症スペクトラム障害 (ASD) のコミュニケーションの非円滑性)を意味する隠語と化している。発達障害者にプレコックス感に類似する固有の印象が随伴することの医学的根拠は乏しいが、インターネット・スラングの意味でプレコックス感を使用する一部の発達障害当事者は自分のコミュニケーション上の困難の原因をプレコックス感に帰し、その存在を主張している。
 20世紀は統合失調症の世紀であった。ブロイラー (E. Bleuler) が早発性痴呆症に代わる統合失調症を提唱して以来、この疾患は精神医学の最大の課題であったと同時にドゥルーズ&ガタリ (G. Deleuze & F. Guattari) の「資本主義と分裂症」のセリーが提示するように人間の新たな形象を暗示する徴候でもあったが、21世紀の関心はプレコックス感の誤用(転用)が示唆するように「新しい疾患」である発達障害に移行している。21世紀は発達障害の世紀になるか?

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