3月11日で「東日本大震災」から13年(第五回)ー石巻市立大川小学校ー

今年2024年3月11日で、東日本大震災から13年を迎えます。今回は、震災遺構「石巻市立大川小学校」を紹介します。

石巻市立大川小学校は、宮城県石巻市にあった公立小学校です。東北地方太平洋沖地震では、近くを流れる北上川を遡上してきた津波に巻き込まれて児童と教職員あわせて84名が死亡しました。この際の学校の対応に過失があったとして、遺族による裁判が行われました。破壊された校舎の一部は、震災遺構として整備され、一般公開されています。

東北地方太平洋沖地震に伴う津波が、本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川を遡上してきました。この津波は、河口から約5 kmの距離にあった学校を襲い、当時校庭にいた児童78名中70名が死亡、4名が行方不明となり、校内にいた教職員11名中10名が死亡しました。さらに、学校に避難してきた地域住民や保護者などまでもが死亡しました。学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては第二次世界大戦後で最悪の惨事となりました。

教職員の間では、裏山への避難と校庭に留まるという意見が対立していました。校庭には地域の避難所として老人たちが避難していました。しかし、裏山への避難を提案した教頭と、三角地帯への避難を主張した区長との間で口論が起こりました。最終的には三角地帯への避難が決定され、教職員と児童は40分以上経ってから徒歩で移動を始めました。車で迎えに出向き「こんなところにいれば死んでしまう」といって強引に子どもを連れ帰った家族らの子どもは、助かっています。結局、三角地帯に避難することが決まり、教職員と児童らが移動を始めた際には、すでに水があふれ始めていました。

児童らが県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込みました。一部の教諭と児童は裏山を駆け上がり助かりましたが、津波を目撃して動けなくなった児童もいました。生存した男性教諭は裏山に登って助かり、その際に3年生の男子生徒を助けたという話もあります。津波を見て逃げた5年生の児童は、山側に走っても滑って登れず、波に押し上げられて動けなくなりました。避難先の三角地帯も津波にのみ込まれ、避難が完了していたとしても被害は避けられませんでした。避難先の標高は津波の予想高に対して不足していました。当時の情報から津波の到達を予見できたか否かは、後に民事訴訟の争点となりました。

2014年3月10日、大川小学校の津波犠牲者の遺族23人が宮城県と石巻市に対し、総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。2016年に仙台地方裁判所は、学校側の過失を認定し、14億2658万円の支払いを命じました。2018年には仙台高等裁判所で控訴審が行われ、14億3617万円の支払いを命じる判決が出されました。石巻市議会は上告を決定しましたが、2019年に最高裁判所が上告を退け、二審判決が確定しました。その後、宮城県が賠償金を立て替え払いし、10年程度に渡って分割払いで石巻市に全額返済することで合意し、賠償総額は20億円を超えることとなりました。

震災後、大川小学校の生存児童22名は石巻市立飯野川第一小学校に通学し、その後二俣小学校の仮設校舎に移転しました。2011年には大川小学校に母子像が設置され、2016年には旧校舎を震災遺構として保存することが決定され、2019年から公園整備が始まり、2021年には震災遺構として一般公開されました。遺構内には校舎やプール、屋外運動場、野外ステージが保存されていますが、内部への立ち入りはできません。

2016年から「大川伝承の会」が語り部活動を行っており、これは学校における防災対策を学ぶ場として機能しています。2020年までには全国の教育関係者1万4000人以上が訪れています。防災訴訟の影響で、宮城県教育委員会は大川小学校での研修を行っていませんでした。しかし、2020年11月4日になって初めて、新任校長90人が遺族の話を聞く機会が設けられました。

大川小学校:
https://www.ishinomakiikou.net/okawa/
※Wikipedia参考

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