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「ながら」の学びについて考える

学習コンテンツのつくり手として。
隙間時間を利用した学習だけでなく、「ながら」の学びを増やしていけないだろうかと、最近考えています。

「隙間」の学びと「ながら」の学び

個人的に、「隙間」と「ながら」では学び方に次のような違いがあると思っています。

隙間の学びとは、予定と予定の間に少しの時間を確保して学ぶこと。あるいは、ふと空いた時間を利用して学ぶこと。例えば夕食後に15分だけ時間を作って学習に取り組むことや、待ち合わせに早くついた10分を使って学習アプリを立ち上げることなどです。

対して、ながらの学びとは学んでいる内容とは別のことをしながら学ぶこと。
例えば食器洗いをしながらeラーニングを視聴したり、通勤電車の中で小説を読みながら英会話のラジオを聴くこと。
※「料理をしながら料理動画を見る」など、学ぶ内容を実践しながら学習コンテンツに取り組むことは今回の検討から外します。

「ながら」の学びはアリかナシか

私自身は「ながら」もアリだと思ってこの記事を書いてますし、似たように感じている人もいらっしゃると思いますが、もしかしたら世の中的にはナシなのかも…?というのが現在の心境です。

例えば子ども向けから大人向けまで、学習コンテンツにおいて隙間時間を利用した学びをウリにしているものはよく目にします。

一方で、ながらの学びを宣伝するコンテンツはあまり見かけません。
そもそも、ながらの学びが歓迎されていない風潮があるような気さえしています。
「ながら」はよろしくないというか、本質的な学びでないというイメージがあるような。
なんとなく、学びには時間と場所を確保して臨むものという雰囲気。

学びコンテンツの提供者側に決めつけがあるのではと思ったこともありましたし、多少はそういう部分もあるでしょうが、もしかしたら一方に限った話ではないかもしれません。
例えば、私が何かを本気で学習しようと思って学習手段を探している側だったとして。「ながら」で身につくと言われると「本気で取り組みたいのに・・・」と思ってしまいそうな気がするし、じっくり学習できるコンテンツを選んでしまいそうです。
(そして結局、時間がないことを言い訳に、溜めてしまったりこなしきれなかったりする)

そんな風に学び手側も無意識に、ながらの学びの優先度を下げてしまうことがあるのかもしれません。

自ら学習の敷居を上げていないか

当然ながら学びだけに集中することが求められる場合もあります。
私がつくる学習コンテンツや教材の中にも、ながらの学習だけで全てを理解するのは難しいだろうと思われるものもあります。
また、何かの試験に臨む人は、60分なり80分なり「集中できる状態をつくる訓練」をしておかないと、本番で本来の実力を発揮できないかもしれません。

ただ、集中した学びだけでなくていい気がしているんです。
例えば、オーディオブック。
それまで読書と言えば移動中の電車か就寝前くらいにしか時間がとれないと思ってましたが、オーディオブックという選択肢が増えて以来、読書に対する敷居がぐっと低くなりました。

もし、ちゃんとした機会を確保できないことが学びの妨げとなっているのなら。
あるいは、「ながら」もアリだという姿勢を示すことで学びの入口に立つ可能性を広げることができるなら。
つくり手側としては、敷居を下げる選択肢を探っていきたいと思っているこの頃です。

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