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教育や学びへの信念と落とし穴

学びという行為には、必ずしも即効性があるとも限らない。
そのため、教育や学びを提供する側にとっては、「今でなくともいつかは学び手の役に立つはずだ」という信念が、仕事を続けるうえでのエンジンになるのだろうと思います。

一方で、自戒もこめて意識しておかなくてはならないのは、その想いが行き過ぎると独りよがりの押し付けに成り果ててしまうということ。
想いを持っているからこそ、本質的に教育や学びに興味を持っている傾向があるのかもしれない。
そこにどんな落とし穴があるか、改めて考えてみようと思います。
(日々の中で考えてみた、個人としての見解です)

学ぶという行為への想い

教え手自身が勉強熱心、あるいは好奇心旺盛で
・新しいことを知るのが面白い
・もはや学びが趣味と言ってもよい
な場合。
派生系としては、
・知識やスキルを増やすことによって自分を満足させている
場合。
熱を持って伝えることは必要だけれど、学び手側の気持ちを錯覚してしまうことに注意したいなと思っています。
例えば
・生徒や受講生は教え手の話を聞いてくれるはずだ
・私たちがこれから教える内容に興味を持ってくれているはずだ
など。

「どうすれば目の前の、(これから話す内容に興味はないかもしれない)学び手が興味を持ってくれるか」という視点での指導設計・研修設計をしたいところです。

教育への期待

教え手自身の
・教育を受けたことで道が開けた
・素晴らしい先生との出会いがあった
という経験から、「ぜひ教育や学びの素晴らしさを伝えたい」となっている状態。
小学校中学校の話だけでなく、学び直しによってキャリアチェンジに成功した、など大人になってからの経験も含むのでしょう。
そうした経験は「自分の伝えることが誰かの役に立つはずだ」という信念を支える強みになるのでしょうし、そうであってほしいですが、経験談を語りがちにならないよう注意が必要かなとも思ってます。
学び(あるいはこれから伝えようとしていること)の人生における必要性を訴えがちになったいないか、実践手法が置いてけぼりにならないか気を配りたいところです。

教育の渇望

前項とは反対に、
・教育を受ける機会がなかった
・機会はあっても期待する内容ではなかった
などの経験から「そんな思いはして欲しくない」となっている状態。
学び手側に寄り添い伝えていけるのは強みになるはずですが、自分が受けたかった理想の押し付けになっていないかには注意が必要かなと思ってます。
自身が経験した過去との比較になりがちなので、今の時代のトレンドを検証する視点を持ちたいところです。

おわりに

以上、教育や学びへの信念を持ってるが故の落とし穴について考えてみました。
この仕事に携わる以上は信念を持っていたい。
ただ、経験や想いが原動力になることもあれば、大ブレーキになることもある。
「こうしたい」という信念の中に、「でもこれで大丈夫だろうか」の疑念を共存させながら試行錯誤していく。
そこに、教育や人材育成に関わるうえでの腕の見せ所があるのではないかと、もしそうだったらいいなと、そんな風に思っている日々です。

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