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「手に職をつけたい」という焦り

以前の記事で記したコーチングを学び始めたきっかけ。

どれも嘘ではないはずですが、根底にはもう1つの感情があったように思います。
それは、手に職をつけたいという焦り。

個人的な経験が役立つかはわかりませんが、1つの在り方として、焦りの内容を振り返ってみたいと思います。

「もう1つの選択肢」が欲しかった

思い返すと自分は、学生時代から「将来のために資格をとっておこう」という思考のもとに行動していました。
例えば教員免許や司書資格の取得を決めたこと。
進路として全く考えていなかったわけではないですが、明確に決めていたというより「あとから後悔しないように」という思いが強かったように思います。

会社員として働く道と、そうではない道。

自分はまだ本格的に決めているわけではないーそんな感情があったせいか、教員を目指していると明確に宣言していた同級生に対して引け目を感じていた部分も少なからずありました。

「決めきってない」という心の拠り所

本格的に決めているわけではないという一種の免罪符。
それは大学を卒業して一般企業に就職してからも続きます。
教員にならないという選択をした一方で「いつかは個人で塾をやるかもしれない」という思いも抱いていました。
しかしながら、いつまでに達成したいと決めていたわけでもなく、実現のために何かアクションを起こしていたわけでもなく。

どこかでもう1つの選択肢がある安心感を持っていたかったのかもしれません。
勤務先の仕事で手を抜くのとは少し違います。
むしろ、「身体的には仕事に割く時間が多くても、心はこっちだけに専念しているわけではない」という思いを心の拠り所というか、逃げ道として利用していたように思います。

「手に職をつけたい」という焦りを手放す

こうして振り返ってみると、私が感じていた「手に職をつけたい」という思いは随分漠然としたもので、どちらかというと「じゃない方の選択肢を持っておきたい」という気持ちに起因していたのでしょう。

ではこの気持ちを完全に切り離すことができるかというと、それは難しいかもしれません。
当時の焦りにも似た思いというのは、自分が学びを続ける原動力にもなっていたように思うからです。

そのため、もし自分の周りの人々が「手に職をつけたい」という理由で学び始めようとしていたら。
その選択自体を否定することはできない気がしています。
強いて何か伝えるとしたら、支払うお金の許容範囲と、これからもお金を払い続けるか検討する定期的なタイミングは自分の中で持っておくことでしょうか。

・支払うお金に納得ができなくなったら。
・学びの内容がしっくりこなくなったら。
・情熱を持ち続けられなくなったら。
・可能性を信じられなくなったら。

決断するきっかけは人によるのかもしれませんが。
やめるという選択も片隅にありつつ、それでも自分は学びを始める(続ける)のだという冷静さのようなものは持ち合わせることで、焦りを「手放す」ことができるのかもしれません。

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