半兵衛(竹中重治)について理解したい
はじめに
戦国最強の軍師として名高い 半兵衛(竹中重治)について、自分なりに理解するためのnoteです
少し前から、歴史上の人物に、自分が現代で感じているのと同じような感覚で生きていた人がいないだろうかと思って歴史の勉強をし始めました
そこでなんとなく気になったのが半兵衛さん
どのような人物だったのか
どのような考えの持ち主だったのか。
なぜ兵法を学ぼうと考えたのか。
調略を得意とし、軍師(参謀)として生きたというが実際そうなのか。
半兵衛は一度は父重元から家督を継いだ
少ない人数で難攻不落の要塞稲葉山城を占拠するなど、戦上手だったと思う
当時、信長や秀吉といった武将が名をあげていく戦国時代
大名・武将となることが、当時の王道の生き方だったと思う。
しかし、菩提山城を弟の久作に譲り、自分は隠居する。
その後、織田軍(秀吉)の軍師(参謀)となり領地を持たなかった。
若くして病死した半兵衛
一見して当時の王道とは違った生き方から半兵衛の当時の考えを考察したい
半兵衛を沿革で理解する
https://town.tarui.lg.jp/docs/2020052800050/files/hanbeisan.pdf
1544年(天文13年) 半兵衛 誕生
「大御堂城」(現在の岐阜県揖斐郡)の城主である「竹中重元」(たけなかしげもと/しげちか)の子
美濃国(現在の岐阜県南部)の国主「斎藤道三」(さいとうどうさん)の家臣
「その容貌、婦人の如し」と資料に残るほど、線が細い美男子で大人しい性格に思われていましたが、武術に優れ、剣術は皆伝の腕前。
1558年(15歳)(永禄元年)には、父・竹中重元と共に美濃にある岩手氏の居城「岩手山城」を攻略
1558年(15歳) 父・竹中重元が「菩提山城」を築く。竹中氏の新たな居城となる
菩提山城は山頂に造られた広大かつ堅固な城
現在の岐阜県。
南側には合戦で有名な関ヶ原https://www.google.com/maps/place/Bodaisan+Castle+Ruins/@35.382267,136.4633318,14z/data=!4m5!3m4!1s0x6002352748128529:0xfee9b068fd71ee5f!8m2!3d35.3928054!4d136.4831439https://www.google.com/maps/place/Bodaisan+Castle+Ruins/@35.382267,136.4633318,14z/data=!4m5!3m4!1s0x6002352748128529:0xfee9b068fd71ee5f!8m2!3d35.3928054!4d136.4831439https://www.google.com/maps/place/Bodaisan+Castle+Ruins/@35.382267,136.4633318,14z/data=!4m5!3m4!1s0x6002352748128529:0xfee9b068fd71ee5f!8m2!3d35.3928054!4d136.4831439https://www.google.com/maps/place/Bodaisan+Castle+Ruins/@35.382267,136.4633318,14z/data=!4m5!3m4!1s0x6002352748128529:0xfee9b068fd71ee5f!8m2!3d35.3928054!4d136.4831439https://www.google.com/maps/place/Bodaisan+Castle+Ruins/@35.382267,136.4633318,14z/data=!4m5!3m4!1s0x6002352748128529:0xfee9b068fd71ee5f!8m2!3d35.3928054!4d136.4831439
6千貫(室町時代の貨幣価値)の知行(所領支配権)
1貫文=10万円、6000貫文=6億円
https://coin-walk.site/J079.htm
6億円の知行は、1人当たりの平均税額は68万円として 市民1000人程度の自治体
小さいながらそれなりの住民の声を聞いて、町や村を治める領主だったと推測
ざっくり、平均年収500万円弱 所得控除144万円、所得税・住民税計20%で計算すると、概ね平均税額68万円に近い計算
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/1410.htm
1560年(17歳) 半兵衛は家督を継いで菩提山城城主になる
竹中半兵衛が17歳のときに父・竹中重元が亡くなる
一説には、1562年[永禄5年]の竹中半兵衛19歳のときに父・竹中重元が亡くなったとされている。
1564年(21歳) 半兵衛、稲葉山城奪取
半兵衛は家臣10数名(わずかな人数)を率いて、一時的に稲葉山城を占拠
稲葉山城に人質とされていた弟の久作を助ける名目
斎藤飛騨守が半兵衛を侮辱したためとも、龍興の家臣日根野備中守と舅である安藤守就が争い、これを救うためとも、城主龍興の愚行を戒めるためともいわれる
1564年(21歳) 半年ほどで稲葉山城を退去。栗原山などに閑居(かんきょ)
1567年(24歳) 織田信長に仕え、秀吉にこわれて与力の謀臣となった
1568年(25歳)、六角承禎の居城観音寺城奪取、箕作城攻撃
1570年(27歳) 越前朝倉義景の手筒山城、金ケ崎攻撃、同年6月には姉川の戦いに出陣
姉川の戦いに先立って浅井長政の重臣鎌刃城主堀次郎・樋口三郎兵衛を調略
信長の近江攻略に功をあげた
半兵衛は秀吉と横山城を守り、数度の浅井・朝倉軍の襲撃を撃退
1572年(29歳) 虎御前山在番を命じられた秀吉の先陣をつとめ、城の守りを固めて小谷城の浅井軍と対峙
浅井氏滅亡後も長浜に居城した秀吉に付き行動をともにした
1577年(34歳) 信長は中国征伐を計画。秀吉を主将として派遣。半兵衛もこれに従う。
秀吉が播磨に入ると、黒田官兵衛がその先導役を務める
半兵衛・官兵衛の2人は、秀吉の下で行動を共にする
播磨の上月城、福岡野城攻撃で軍功をあげた
1578年(35歳) 半兵衛は 黒田官兵衛の息子(信長から謀反の疑いをかけられ殺害の命のあった官兵衛の息子)松寿丸(のちの黒田長政)を家臣の不破矢足邸に匿って養育
信長の部将であった有岡城主荒木村重が、信長に離反
部将であった有岡城主荒木村重が、信長に離反すると、官兵衛は有岡城へ向かい説得を行う
幽閉されてしまう
信長は官兵衛の謀反を疑う
半兵衛は官兵衛を信じる
1578年(35歳) 半兵衛は秀吉の補佐役として三木城攻めに参戦
中国毛利攻めの拠点であった三木城別所氏が毛利方へ寝返り、秀吉によって三木城攻めが行われた
出陣中、身体の不調を覚えた半兵衛は、一時京都で休養
1579年(36歳) 天正7年(1579)6月13日に没した
身体の不調を覚えながらも、再度平井の本陣に帰り、戦場で最期の時を迎える
半兵衛は当時どのような職業だった?
戦国武将。
資料に残るほど、線が細い美男子で大人しい性格に思われていましたが、武術に優れ、剣術は皆伝の腕前。
1560年(17歳) 半兵衛は家督を継いで菩提山城城主になる(その後、家督を弟の久作に譲る)
6千貫(室町時代の貨幣価値)の知行(所領支配権)
以後、織田信長(秀吉)の軍師として歴史に名を挙げた
1564年 半兵衛は家臣10数名(わずかな人数)を率いて、一時的に稲葉山城を占拠
1567年以降、織田信長の与力となる
与力 = 大名や有力武将に従う下級武士
1570年の姉川の戦いに先立って浅井長政の重臣鎌刃城主堀次郎・樋口三郎兵衛を調略
竹中半兵衛(1544~1579)の兵法を伝えるとされる書物「軍法極秘伝書」は、江戸時代に成立したと言われる。
軍法極秘伝書 = 天才軍師として名を知られた半兵衛の合戦の陣形などを伝える兵法書
戦国時代の兵法とは
兵法(ひょうほう、へいほう)は「戦術・兵の動かし方など、戦の仕方のこと/剣術などの武術のこと」
当時の戦国武将たちは、「孫子」などの兵法を学び、合戦に活かしていたらしい
必勝法というよりは、戦いに負けず生き残っていく方法
戦国時代の兵法とは(つづき)
戦国武将が学んだとされる「孫子」の兵法は中国のものだが、いつどのように日本に渡ってきた?(本当に半兵衛を含む戦国武将たちは、孫子の兵法を学んでいたの?) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%BC%9D%E6%9D%A5
奈良時代(710年-794年)に、遣唐使(日本から、中国の唐への留学生)が中国から兵法書を持ち帰ったとされている。
吉備真備(694年生まれ)が、23歳のときに唐(当時の中国)へ留学
遣唐使として唐に入国し、41歳で帰国するまで『礼記』や『漢書』を学んでいた
この時恐らく『孫子』・『呉子』をはじめとする兵法も学んだと推測されている。
数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では実戦に活用してもいる
吉備真備のもとへ、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたらしい
『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは『続日本紀』天平宝字4年(760年)
平安時代以降、組織戦が主体となるにつれて、『孫子』は取り入れられるようになっていく。
そのため、戦国時代の武将たちも、奈良時代に中国から伝来された書物の内容を頼りにしていたと思われる。
戦国時代の武将たちは、当時兵法書をどうやって入手した?
手書きで複製された本(写本)を朝廷などから入手していたと思われる
参考: ABAJ(日本古書籍商協会)http://www.abaj.gr.jp/history.php
武士、富裕町人等の求めに応じて公卿の手により盛んに書写されたという記載
なお、『孫子』の初めての印刷は、江戸時代初頭とされている。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/kanseki/110x-337-1
家康が、伏見版と呼ばれる木活字の印刷本を発行させる
1606年には閑室元佶によって『孫子』が出版された
それまで写本しかなかったと思われる
ちなみに、戦国時代以前の印刷事情は? https://www.shumpou.co.jp/technology/lets_learn/phistory/
木版印刷。
奈良時代(710年-794年)に中国から伝わってきたとされる印刷方法
制作年が明確な現存最古の印刷物は『陀羅尼(だらに)のお経』100万巻印刷したらしい。
770年に、国中のお寺にお経をひろめるため、大きな寺にそれぞれ10万巻ずつくばった https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E5%A1%94%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC
このときの印刷方法が,中国から伝わってきた印刷方法
ただ、12世紀ころまで、あまり印刷はされなかった模様
文字が読める人は一部のえらい人たちだけ
なので、たくさん印刷しなければならないといった必要がなかった
『源氏物語』はなんと手で書き写されたもの https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
平安時代中期に成立した日本の長編物語(文献初出は1008年)
12世紀ごろからは,ふたたびお経が印刷され始めた様子
戦国武将たちは「孫子」の兵法書をいつ・どのように学んでいた?
一般的に武将の教育係として僧侶が招聘(しょうへい)されたとされている
領国を持つ大名家は、漢文の解釈ができる僧侶(「物読み坊主」といわれる)に講義をしてもらって理解していたとされる
山本が当時の史料『看羊録』による指摘によると、戦国武将は孫子などの兵法書を持っていても読解する能力がない?
また、戦国時代(16世紀)の当時は、寺社が当時の学校の役割を果たしていたとされている
寺院で養育された戦国武将
上杉謙信
幼少期(6歳〜)は寺院に預けられていた
参考: 半兵衛が秀吉軍(山賊集団)を常勝軍団へと変貌させた方法
https://bs.tbs.co.jp/no2/26.html
参考: 半兵衛のどのような点が天下人(信長)に認められたのか?
https://www.touken-world.jp/tips/7491/
半兵衛の人物像を考察する材料
半兵衛は1560年に父親の竹中重元から家督を継いで菩提山城城主になる
菩提山城は、6千貫の知行。
その後、家督を弟の久作に譲るまで、一時的とはいえ菩提山城の領主としての立場にあった。
半兵衛は1564年に、家臣10数名(わずかな人数)を率いて、難攻不落とされた稲葉山城を占拠
半兵衛は武術に優れ、剣術は皆伝の腕前だったらしい
半兵衛は1579年に30代の若さで病死している
1578年には一時京都で休養を取るが、その後戦場に戻り病死
戦場で最期を遂げた
江戸時代には、半兵衛の兵法を記した軍法極秘伝書が編集された
半兵衛はいわゆる虚弱体質で、体が弱く見た目は痩身で女性のようだったとされている
まとめると
半兵衛すごい!
人物像としては、天下人に仕えることや、出世して名を挙げることを望むというよりも、自らの戦略戦術を駆使して戦場で生きることに誇りを持って(生き甲斐を感じて)、道理を重んじる性格だったのではと推察しました。
家臣10数名(わずかな人数)を率いて、一時的に稲葉山城を占拠。しかし、一度は占拠した難攻不落の要塞稲葉山城もあっさり手放す。
その後自分は閑居し、菩提山城の家督を弟の久作に譲る
以後、信長(秀吉)の与力として兵法を駆使して戦場で軍師として活躍
身体の不調を覚えた半兵衛は、一時京都で休養。その後は、戦場に戻って最期を遂げたとされる
江戸時代には、半兵衛の兵法を記した軍法極秘伝書が編集された
参考文献したサイトにもある、信長から謀反の疑いをかけられ殺害の命のあった官兵衛の息子(のちの黒田長政)を匿って養育したという逸話
以上
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