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藤井聡太氏が示したAIと人間の可能性

 2023年5月28日、将棋叡王戦第四局において勝利を収めた藤井聡太叡王は叡王位を防衛し、名人戦の奪取による7冠獲得に王手をかけた。この対局は二度の千日手の末、というだけでもなかなかの話題だろうに、二度目の千日手指し直し局の最終盤に見せた詰みが、AIも読んでいなかった、さあまたもAI超えだ、と巷の将棋ファンの間で(多分プロ棋士の間でも)ちょっとした騒ぎとなった。
 藤井氏はAIを超えたのか。
 abemaでの状況はこうである。藤井氏が「2九龍」と龍を捨てて王手をかけた瞬間、AIは「悪手」と判定し、形勢を示すパーセンテージが挑戦者菅井八段に60%以上振れ、逆転を示した。チャットには数多いる藤井ファンの悲鳴で溢れたことだろう。この手を指す前の局面のAI候補手にも、この手は示されておらず、解説の阿久津八段すら「えっ」と驚き声を失った。その間約一秒ほどはあっただろうか。画面のAIは、「悪手」の表示を訂正し「23手詰み、後手勝利」を示した。阿久津八段も、「詰むの?」とつぶやきながらしばしプロの読みを入れ「詰むんだ、、、すごい」と納得した模様だ。
 この状況をもって、巷は「藤井聡太がAIより早く詰みを読み切った、AI超えだ」と大きく湧いたわけである。遠山六段も「華がありすぎる」などとつぶやき、玄人筋も驚かせたことは間違いない。
 かくいう私も、強いだけでなく、こういう芸当を時々見せてくれる藤井六冠のファンなので、魅せてくれてありがとうと言いたい。
 それはそれとして、水をさすつもりはないが、ちょっと考えてみた。言って23手詰である。AIはいったいどうしたんだろうか。AIに起こっていることを想像してみた。

 実は、詰将棋はAIは苦手なんだという言い方がある。これは将棋AIの専門家の一種の例え話だと思うので、それをまるまる言い切ってしまうと、おそらく語弊がある。
 ここでは、詰将棋と区別するために、普通の将棋のことを本将棋ということにする。詰将棋は、本将棋のルールに則って行われるが、王手を最後までかけなければならないなど、ルールがいくつか付け加えられている。制限が多いということは、むしろコンピュータにとっては曖昧な要素が少なくなるので、有利なはずだ。事実、将棋AIよりも、詰将棋を解くソフトのほうが遥かに早い時期に登場している。なのに、なぜ苦手という表現になるのか。
 おそらくこれは、いうなれば、「本将棋」と「詰将棋」は「別なゲーム」だからだということではないだろうか。
 将棋AIは、様々なAIプログラミング技術の宝庫で、機械学習、深層学習アルゴリズムなど先進技術の実験場になっていると言える。しかし、局面を読んでいくという基礎は変わらない。10の220乗という、現代の技術では、宇宙の年齢を超えても計算できない局面を持っていることが、将棋AIそのものの存在意義となっている。つまり「読むだけ」では時間も資源(コンピュータの能力、メモリなどのリソース)も現実的ではなく、「読み」をある程度で打ち切ることが出来る「評価関数」の出来が将棋AIの強さを決めている、と言ってもいい。
 一方、詰将棋は、詰むことがわかっているので、「評価関数」によって有利不利を測る必要はなく、王手の局面がなくなる、または詰め上がるまで読み切れば、そこで終了、というゲームだ。古典的な迷路アルゴリズムが使える。
 さて、「本将棋」内における「詰将棋」とは、その局面に「詰みがある」ということになるが、一般には詰みがあるかどうかは「詰将棋」アルゴリズムで読んでみないとわからない。つまりその局面から王手が出来なくなるか、もしくは詰め上がるまでは、「評価関数」ではなく、詰将棋のアルゴリズムで読み続ける必要がある。
 短い手数の詰みならば、将棋AIの初期プログラムに組み込まれているだろうが、ある程度以上の(例えば、上記の対局のように20数手とか)手数になると、とたんに読む局面が天文学的に増加することになり、かつ実戦ではもしそれが詰みであっても手数は読みが終わるまでわからない。となると、時間を含めたリソースの分配を考えると、ここでも読む手数を打ち切らなければならない限界がある。「本将棋」のルールに則れば、実行の順番として将棋AIでは、先に詰みがあるかないか見切ってから局面評価を始めるだろうから、局面によっては、リソースの分配を超えた詰みが生じることがある。この対局の「2九龍」の局面はそういった局面だったのではないだろうか。
 言い換えると、将棋の対局とは、まず一旦、「詰将棋」というゲームを試み、その後「局面評価」という違うルールのゲームに移行する。人間はこの2つのゲームの行き来をシームレスに行っているが、AIは、別々に行なわざるを得ない。
 もちろん、であっても、この局面が、ぎりぎり「詰将棋」の局面になっていて、ここがゲームを変えるタイミングだと見切る力、つまりシームレスな「勘」に藤井叡王が優れていたことは間違いない。ただ、こういった「勘」に近いものは、人間の持つ特質ではないだろうか。

 このように、ルールやゲームを臨機応変に変え、リソースの配分を自由自在にするのは、AIは苦手としていると言えないか。天才藤井聡太が示した一手に、AI時代を生き抜く一つのヒントがあるかもしれないと思うのだ。


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