入祭唱 "Dum medium silentium tenerent omnia" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ41)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEX pp. 53–54; GRADUALE NOVUM I pp. 40-41.
 gregorien.info内のこの聖歌のページ

 この聖歌が日本の教会の典礼で歌われることはまずない。それにもかかわらず訳したいと思うのは,テキストが描き出すイメージの美しさゆえに,これが私の特に好きな入祭唱の一つだからである。
 いや,実はアンティフォナの全体訳は既に2年近く前に行い,Facebookに投稿した。何となくGRADUALE TRIPLEXを見ていたらこれを見つけ,何とも素敵だと感じたので紹介したくなったのである。まだ本シリーズを (note自体も) 始めていなかったころのことである。
 なお,旋律は本稿執筆時点で未だに知らない。

 さて,この聖歌が日本の教会の典礼で歌われることはまずないと書いたが,それはなぜか。これが割り当てられている「降誕祭後第2主日」は1月2日から5日までの間にくる日曜日のことなのだが,日本ではその日 (正確にいうと1月2日から8日までの間にくる日曜日) に「主の公現」(エピファニー) を祝うからである。「主の公現」は本来,曜日にかかわらず1月6日に祝われる祭日だが,平日に教会に行くのは難しい人も多い。しかしこれは大切な祭日なので,皆が集まりやすい日曜に移して祝うようにしている,というわけである。

 「主の公現」が原則通り1月6日に祝われる国・地域でも,「降誕祭後第2主日」は1月2日~5日限定なので,ない年も多い。12月25日より後にくる2番目の日曜日は1月2日から8日までに当たりうるのに,なぜ5日までに限るのかというと,6日ならば当然「主の公現」の祭日が,7日以降ならば「主の洗礼」の祝日が優先されるからである (「主の洗礼」は「主の公現」の後最初にくる日曜日に祝うよう定められている)。

 そういうわけで用いられることの少ない歌なのだが,平日ミサでグレゴリオ聖歌を歌う場合,少し機会が増える。1月2日から公現祭の前日までの平日に割り当てられている入祭唱2つのうち1つがこれだからである (もう1つは降誕祭にも歌われる "Puer natus" で,どちらかを選ぶ)。

 1969年以前の典礼 (および現行の「特別形式」の典礼) では,この入祭唱は降誕祭後第2主日ではなく第1主日に割り当てられていた (いる)。ただし,この日が1月1日にあたる場合は,「降誕祭から8日目」(OCTAVA
NATIVITATIS DOMINI) の式文が優先された (される)。
1月2日から5日までにくる日曜には「至聖なるイエスの御名」の祝日が祝われていた (いる)。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Dum medium silentium tenērent omnia, et nox in suō cursū medium iter habēret, omnipotēns sermō tuus, Domine, dē caelīs ā rēgālibus sēdibus vēnit.
Ps. Dominus rēgnāvit, decōrem indūtus est: indūtus est Dominus fortitūdinem, et praecīnxit sē [virtūte].
【アンティフォナ】すべてのものが沈黙の中の沈黙を保ち,夜がその行程のちょうど半ばに至ったとき,あなたの全能の御言葉が,主よ,天の玉座から降り来ったのだ。
【詩篇唱】主は王となられ,威厳を身にまとわれた。主は強さを身にまとわれ,腰帯を [or:力を腰帯として] お締めになった。

 詩篇唱の最後の語 "virtute" はGRADUALE TRIPLEXには活字では載っておらず,ネウマとともに手書きで記されているだけである。これは,Vulgataには含まれていないが古い聖歌書の写本には載っている,ということを示すものである。GRADUALE NOVUMは写本に従って "virtute" まで活字で載せている。

 この "virtute (uirtute)" が確認できる写本には,私がオンラインで見た限りでは次のものがある。
● Sankt-Gallen, Stiftsbibliothek 376 pp. 106-107 (リンク先はp. 106で,"uirtute" が確認できるのはp. 107の1行目)
● Roma, Biblioteca Angelica 123 f. 39 (f. 39r [39枚目の紙の表面] の終わりで "Dum medium silentium" が始まり,裏面すなわちf. 39vに続く。その1行目の終わり近くに "uirtute" とある。上のSankt Gallen写本よりだいぶ見づらい)

 アンティフォナの元テキストは知恵の書 (新共同訳聖書や聖書協会共同訳聖書でいう「旧約聖書続編」に属する文書の一つ) 第18章第14–15節であるが,そのままではないし,もとの文脈の中でこの箇所を読むと印象がだいぶ変わる。

魔術に惑わされて
 何も信じようとしなかった者たち [=エジプト人] は
長男の死を見たとき
この民 [=イスラエルの民] を神の子であると認めた。
沈黙の静けさがすべてを包み
夜が速やかな歩みで半ばに達したとき
あなたの全能の言葉は天の玉座から下り

情け容赦ない戦士として
滅びの地のただ中に降り立った。
その言葉は,取り消しようのないあなたの命令を
鋭い剣として手にし
立って,すべてを死で満たし
天に触れながらも地を歩んでいた。

知恵の書第18章第13–16節 (聖書協会共同訳)

 ここで言われているできごとが何であるか,「長男の死」や「夜」が何を指しているかは,出エジプト記を読めばはっきり分かる。

 モーセは言った。「主はこう言われる。『私は深夜エジプトの中を歩む。そして,エジプトの地のすべての初子は死ぬ。その王座に着くファラオの初子から,石臼の傍らにいる女奴隷の初子まで,また家畜の初子もすべて死ぬ。大きな叫びがエジプト全土に響き,そうした叫びはかつて起こったことがなく,再び起こることもない。』

出エジプト記第11章第4–6節 (聖書協会共同訳)

 このような背景・文脈をすっかり切り捨て,エジプトのすべての初子を殺す恐ろしい「全能の言葉」を「人となった御言葉」のことに,殺戮の夜を聖夜に読み替えてしまうというのは,好ましいとはいえ聖書の言葉の扱い方としては驚くべき大胆さといえるが,グレゴリオ聖歌のテキストにおいてこれは唯一の例ではない。内容的にごく近いものとして私が思い出すのは,アドヴェント第2週の入祭唱 "Populus Sion" である。

ecce Dominus veniet ad salvandas gentes :
見よ,主が来られるであろう,諸国の民 (異邦人) を救うために。

 ここで「諸国の民 (異邦人) を救うために」と訳した "ad salvandas gentes" は,もとの聖書 (イザヤ書第30章第28節) ではなんと "ad perdendas gentes (諸国の民を滅ぼすために)" となっているのである。

 単に破壊的なメッセージが救いのメッセージに変わっているというだけでなく,異邦人 (神の民=イスラエルの民以外の人々) の扱いが180度転換しているという点が特に重要である。クリスマスとは,アンブロジウスが著しルターがドイツ語版を作った有名なアドヴェントの聖歌がよく示しているように,「異邦人の救い主」の到来でもあるからである。

Veni Redemptor gentium
来てください,諸国の民 (異邦人) を贖う者よ

Nun komm, der Heiden Heiland
さあ来てください,異邦人の救い主よ

 なおこれとは別に,Vulgataと比較すると細かい差異があるのだが,これはそもそもVulgataではなくもっと古いラテン語訳聖書テキスト (Vetus Latina) に基づいているためでもあるかもしれない。実際そうかどうか確かめるべく,本当はVetus Latinaを持ってきて比較したいのだが,すぐにアクセスすることはできず,本稿は降誕節が終わらないうちに投稿したいので,今回は諦める。

 詩篇唱の元テキストは,詩篇第92篇 (ヘブライ語聖書では第93篇) 第1節である。最後の "virtute" はVulgata=ガリア詩篇書にはないが,ローマ詩篇書にはある (ただし,少なくとも私が見ているオンライン版では "virtutem" となっている)。しかしローマ詩篇書では "indutus est" が "induit" となっているところを見ると,この詩篇唱がこちらに基づいているわけではなさそうである。あくまでVulgataに基づき,しかしVulgataのテキストに少々ヴァリアンテがあるということなのだろう (あるいは聖歌書・典礼書に書き写される段階で "virtute" が加わったか)。
 (「Vulgata=ガリア詩篇書」「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら)
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Dum medium silentium tenērent omnia,
直訳:
すべてのものが真ん中の沈黙を保っていたとき,
私の訳:すべてのものが沈黙の中の沈黙を保っていたとき,
こなれた訳:すべてのものが沈黙のただなかにあったとき,

  •  あまり難しく考えず,「こなれた訳」として示した訳文のように考えればよいのだろうとは思うが,それでもこの "medium silentium" という語句が意味するところを私なりに厳密に考えてみたい。
     直訳するとこれは「真ん中の沈黙を」という意味である。この言葉から私が考えたのは,沈黙が広がっている一帯のうち周縁部ではなく中心部,ということである。周縁部は沈黙のない領域に接しているためやや雑音が混じりかねないが,中心部はそれ自体が沈黙の領域であるだけでなく周囲も沈黙の領域であるため,その沈黙は完全なものとなる。そういうわけで「沈黙の中の沈黙を」と訳したいと思うのである。

  •  なお「沈黙」は「静寂」と訳してもよく,ここでは人間が黙っていることではなく辺りが静かだということが言われている以上むしろ後者のほうが適切だという考え方もあろうかと思うが,原語 "silentium" を辞書で引いてみるとどちらかというと「黙る」「音を立てない」というニュアンスが強いように感じた (感じただけであり,それほどはっきりしているわけではない) のでこうしておく。私の好みもあるが。

et nox in suō cursū medium iter habēret,
また夜がその行程の半ばに達した (とき),
直訳:また夜がその行程において道の半ばに達した (とき),

  •  さらに直訳すれば「……半ばの道を持った (とき)」ということ。ともかく,夕方から朝へと進む夜がその道のりのちょうど半分のところに達したとき,すなわち真夜中に,ということである。

  •  前の文にある接続詞 "Dum" がまだ効いているため,ここも「~とき」という意味になる。

omnipotēns sermō tuus, Domine, dē caelīs ā rēgālibus sēdibus vēnit.
あなたの全能の御言葉が,主よ,天の玉座から降り来ったのだ。
直訳:あなたの全能の御言葉が,主よ,諸々の天から,王の諸々の座から来た。

  •  一般に「言葉」「御言葉」と訳されるラテン語は "verbum" であり,ヨハネによる福音書冒頭の「はじめに言葉があった」「言葉は神であった」「言葉は肉となり」云々における「言葉」もラテン語聖書では "verbum" である。

  •  だが,ここでそう訳したのは "sermo" という語で,これは本来「演説」「説教」「会話」などを意味する語である。しかしギリシャ語原文ではここは "λόγος" (ロゴス) となっており,これは "verbum" と訳されている語と同一である。実際 "λόγος" はどちらにも (そしてほかにもいろいろに) 訳しうる語であり,ここで "sermo" という訳語が選ばれているのは,聖書のもともとの文脈にはそのほうがよく合うと判断されたからなのだろう。

  •  しかしこの入祭唱においては,季節が降誕節であることから考えても,ここで言われているのが天から降った神の子のことであるのは明らかである。したがって,ヨハネ福音書冒頭を念頭に,ここは単純に「御言葉」と訳すのが適切であると考える。なお,さらにもう少し考えたことを逐語訳のところに書いたので,そちらもごらんいただければと思う。

  •  なお最後の動詞 "venit" は,理論上は現在時制ともとれる (その場合,"e" は短母音となる)。

【詩篇唱】

Dominus rēgnāvit,
主は王となられた,

  •  普通ならば「主は王であった (支配なさった)」という意味になる文なのだが,ここでは文脈上適さない (過去の栄光の話をしているのではない) のでこのように解釈する。Septuaginta Deutschもここは "Der Herr ist König geworden" としている。

  •  ヘブライ語までさかのぼれば,たぶん「王である」という意味にとることもできるのだろうが。

decōrem indūtus est:
(彼は) 威厳を身にまとわれた。

indūtus est Dominus fortitūdinem,
主は強さを身にまとわれた,

et praecīnxit sē [virtūte].
そして腰帯をお締めになった。/ そして力を腰帯としてお締めになった。

  •  "virtute" があれば右の訳,なければ左の訳になる。
     

【逐語訳】

【アンティフォナ】

dum ~のとき (英:when, while)

  •  接続詞で,時を示す従属節をつくる。

medium 真ん中の

silentium 沈黙を,静寂を

tenērent 保っていた (動詞teneō, tenēreの接続法・能動態・未完了時制・3人称・複数の形)

  •  接続法なのは単にdum節の中だからであり,意味の上では直説法のときと変わりない。

  •  従属節中にこのような未完了時制の接続法の動詞が現れる場合,時制は (現在時制同様に) 主節のそれに一致する。今回は主節の時制が完了時制なので,ここもそのように訳している。

omnia すべてのものが (中性・複数)

  •   「すべての」を意味する形容詞omnis, omneが名詞化したもので,ここでは中性なので「すべての人が」ではなく「すべてのものが」となる。

et (英:and)

nox 夜が

in suō cursū 自身の行程において (suō:自身の,cursū:行程 [奪格])

medium iter 半ばの道を (medium:半ばの,真ん中の,iter:道を)

habēret 持った (動詞habeō, habēreの接続法・能動態・未完了時制・3人称・複数の形)

  •  接続法である理由について,また訳すときの時制については上の "tenerent" と同じ。

omnipotēns sermō tuus あなたの全能の言葉が (omnipotēns:全能の,sermō:言葉が,説教が,演説が,会話が,メッセージが, tuus:あなたの)

  •  対訳のところでも問題にした "sermo" という語は「メッセージ」という意味にも取れるらしく,これは味わい深いと思う。神からのメッセージとしてのイエス・キリスト。まあこれも,「人となった御言葉」というヨハネ福音書の神学と絡めてよく言われることではあるが。

Domine 主よ

dē caelīs 天から (caelīs:天 [複数・奪格])

ā rēgālibus sēdibus 玉座から (rēgālibus:王の [形容詞],sēdibus:座,椅子 [複数・奪格])

vēnit 来た (動詞veniō, venīreの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

  •  長音符 (マクロン) は原文についているわけではないので (この語に限らず),対訳のところにも書いた通り,これは理論上は現在時制ともとることが可能な形である。

【詩篇唱】

Dominus 主が

rēgnāvit 王になった,王であった,支配した (動詞rēgnō, rēgnāreの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

decōrem 威厳を,気品を,装飾を

indūtus est 着た (動詞induō, induereの直説法・受動態・完了時制・3人称・単数の形)

  •  この動詞は能動態でも「着る」という意味になるのだが,「着せる」という意味も持っており,それを受動態にすると「着せられる」→「自分に着せる」(再帰動詞的),つまり結局「着る」という意味になるわけである。

indūtus est (同上)

Dominus 主が

fortitūdinem 強さを

et (英:and)

praecīnxit 腰帯を締めた (動詞praecingō, praecingereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

自分自身に (対格)

virtūte 力でもって (奪格)

  •  力を入れて腰帯を締めた,という意味ではなく,力を腰帯として締めた,ということである。

  •  この語は本来「徳」をはじめとしていろいろな意味を持つものだが,これまで訳してきたグレゴリオ聖歌のテキストにおいてはいつも「力」という意味らしかった。

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