入祭唱 "Dilexisti iustitiam" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ20)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 498; GRADUALE NOVUM I p. 47.
gregorien.info内の該当ページ
(投稿翌日追記) こちらも併せてお読みいただけると嬉しい。
更新履歴
2022年12月26 (日本時間27) 日
"odisti" の時制をどう解釈するかについて,ヘブライ語聖書や七十人訳ギリシャ語聖書を直接参照しての説明を加え,その結果あまり価値のなくなった部分 (さまざまな訳でどうなっているかについて) を削除した。
旧ミサ (現行「特別形式」典礼のミサ) での使用機会について書き加えた。
その他細かい修正を行なった。
2022年1月13日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
現行「通常形式」のローマ典礼 (現在のカトリック教会で最も普通に見られる典礼) では,主の洗礼の祝日 (イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する) に歌われるほか,「おとめ」として記念される聖人たちの日に共通して用いられる歌 (Commune) でもある。あと,聖木曜日の午前中 (または聖週間の月~水曜日) に行われる「聖香油ミサ」でも歌われる。
主の洗礼の祝日は,主の公現の祭日 (本来必ず1月6日) の次の主日に祝われることになっている。ただし,皆が教会に集まりやすいように「主の公現」を1月6日に固定せずに常に主日に祝うことにしている地域 (日本も該当する) で,もしこれを6日より後に祝った場合,そのまた次の主日に「主の洗礼」を持ってくると,原則通り6日に「主の公現」を祝った地域と1週間ずれてしまうことになる。
例えば2018年,1月6日は土曜日であった。原則通り6日に「主の公現」を祝った地域では,その次の日曜ということで,直後の1月7日に「主の洗礼」を祝った。しかし日本では「主の公現」を常に日曜に祝うため,1月7日に「主の公現」を祝った。もし,その次の日曜である1月14日に「主の洗礼」を祝うことにしてしまったら,原則通りにやっている地域と1週間ずれてしまう,というわけである。これを避けるため,日本などで「主の公現」を1月7日または8日に祝った場合 (9日以降はない),「主の洗礼」は直後の月曜日に祝うことになっている。
今年2019年は,世界中どこでも,「主の洗礼」は1月13日日曜日に祝われる。
この祝日をもって降誕節が終わり,翌日から「年間」となる。
1962年版ミサ典書 (現在,旧ミサ [伝統ミサ,「特別形式」典礼のミサ,いわゆるトリエント・ミサ] を行うときに用いられる典礼書) では,この入祭唱は「1人の『おとめであり,殉教者でない者』」という条件に合致する聖人の祝日 (記念日) に共通に用いることができるもの (Commune) の一つである。「主の洗礼」を記念する日自体はあるにはあるが (1月13日固定),この日には用いられない (そもそもいわば固有の入祭唱がなく,公現祭のそれが用いられる)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Dilexisti iustitiam, et odisti iniquitatem: propterea unxit te Deus, Deus tuus, oleo laetitiae prae consortibus tuis. T[empore] P[aschali] Alleluia, alleluia.
Ps. Eructavit cor meum verbum bonum: dico ego opera mea regi.
【アンティフォナ】あなたは正義を愛した,そして不正を憎んだ (※1)。それゆえ神は,あなたの神は,あなたの仲間たちの前であなたに喜びの油を注いだ。(復活節には) ハレルヤ,ハレルヤ。(※2)
【詩篇唱】私の心は (抑えきれず) よい言葉を語った。私は私の作品を王に向かって吟ずる。
アンティフォナの出典は詩篇第44 (一般的な聖書では45) 篇第8節,詩篇唱に採られているのも同じ詩篇 (ここに掲げられているのは第2節の前半) であり,テキストはローマ詩篇書ともVulgata/ガリア詩篇書とも完全に一致する (これら2つの詩篇書についての解説はこちら)。アンティフォナに用いられている第8節は,イエス・キリストについての預言として新約聖書に引用されている (ヘブライ人への手紙第1章第9節)。
【対訳】
【アンティフォナ】
Dilexisti iustitiam,
あなたは正義を愛した,
et odisti iniquitatem :
そしてあなたは不正を憎んだ (※)。
別訳 (言葉の本来の意味に従った訳):そしてあなたは不正を憎む (※)。
※の箇所は,本来ならば「憎んでいる」あるいは「憎む」が正しい。これは "odisti" という完了時制の形をとっている動詞の訳だが,この動詞は完了時制の形で現在時制の意味になるという特殊な性質を持っているのである。完了時制 (「憎んだ」) の意味を表したいときには,過去完了時制の形を用いることになる (その場合 "oderas" となる)。
しかしこの "odisti",文脈上は「憎んだ」と訳したくなるところであり (「あなたは正義を愛し,不正を憎んだ。それゆえ神はあなたに喜びの油を注いだ」),事実,このテキストの訳を5つ (Vulgataの訳2つ,入祭唱の訳3つ) 見たが,どれも「憎んだ」と訳している。
グレゴリオ聖歌のもとになっているラテン語詩篇は,ヘブライ語原典からではなく七十人訳ギリシャ語聖書からの翻訳であるが,この七十人訳では両者は同じ形 (直説法・アオリスト。過去か現在かでいうと過去) をしている (ちなみに一応ヘブライ語原典も見てみると,結論だけいえば,同じ時制で訳すべき形になっている)。
このことからすると,ラテン語テキストでも両者が同じ時制を取ることが意図されていると思われる。思うにVulgataは,「……愛した」と「……憎んだ」とが対になっているということを語調の上できれいに表現するため,意味上の正確さを犠牲にしてでも動詞の活用語尾を揃えて "dilexisti" "odisti" としたのではないだろうか。意味の上での時制を本当に揃えるとなると,上で述べたとおり,"odisti" のほうは過去完了時制の形にして "oderas" としなければならず,すると語呂が悪くなるのである。"Dilexisti iustitiam, et oderas iniquitatem". もとの "Dilexisti iustitiam, et odisti iniquitatem" のほうが,意味はどうあれ,響き・字面としては整っているのを感じていただけるだろうか。このテキストが歴史文書や物語でなく,詩篇の一部であるということも考慮してよいと思う。なお,Nova Vulgataでもここは全く変更されていない。
Vulgataのほかの箇所でこの動詞odi, odisseがどのように用いられているかざっと調べてもみたが,圧倒的多数の箇所ではどうやら本来の用法 (完了時制の形で現在時制の意味) のようである。わずかな例外と思われるものの一つが詩篇第49 (一般的な聖書では50) 篇第17節なのだが,そこでも2つの "-isti" という語尾の動詞が並べられており,語調のために敢えてなされた破格 (でなければ,正確な訳出の犠牲) ではないかという上の私の考えを支持してくれそうなものとなっている。
こう考えると,いくら "odisti" が本来現在時制の意味だといっても,そこにこだわって「あなたは正義を愛した,そして不正を憎む」というスマートでない訳を敢えてする必要はないと思えてくる。Vulgataのこの部分自体が厳密な訳出よりも調子のよさを優先したものなのであれば,訳文も調子よく「愛した,憎んだ」とさせてもらってよいのではないか。しかも本来意図されているであろう意味が実際そうなのであれば,なおさらである。
propterea unxit te Deus, Deus tuus, oleo laetitiae prae consortibus tuis.
それゆえ神は,あなたの神は,あなたの仲間たちの前であなたに喜びの油を注いだ。
別訳1:(……) あなたの仲間たちにする以上に (……)
別訳2:それゆえ,神よ,(……)
別訳2の「神よ」という訳は,コンマの位置を無視すれば可能。昔のラテン語には句読点がなかったのだから,べつに強引な解釈ではない。詩篇第44篇自体はともかく,これを引用したヘブライ人への手紙第1章第9節は,さまざまな聖書で実際そう訳されていることがしばしばある。あとはこの入祭唱を歌う機会の問題である。主の洗礼の祝日ならば,「神よ」も大いにありだろう。しかし聖人の記念日にこの解釈をとるのは,さすがに適切でないだろう。
【詩篇唱】
Eructavit cor meum verbum bonum:
私の心は (抑えきれず) よい言葉を語った。
別訳 (直訳):私の心はよい言葉を吐き出した。
どうももとのヘブライ語聖書の意味するところは,心に讃美の念がいっぱいになって溢れ,「よい言葉」となって出ずにいられなかった,ということらしい。それを七十人訳は「吐き出した」と訳し,ラテン語詩篇もそれを引き継いでいる。といってもこの動詞 (eructo, eructare) は,教会ラテン語では単に「語る」「言葉を発する」という意味で用いられることもあるようで,Vulgataでもそれらしい用法がほかの箇所にあるのを見た。だからここも単に「よい言葉を語った」とするだけでもよいのだが,せっかくなので「思いが溢れて言葉になった」というヘブライ語原典の意味と「吐き出した」というラテン語の本来の意味とを汲んで,「(抑えきれず)」と付け加えることにした。
dico ego opera mea regi.
私は私の作品を王に向かって吟ずる。
動詞dico, dicereはふつう「言う」と訳されるが,この動詞は「歌う」という意味で (あるいは,「言う」「歌う」両方の意味を含めて) 用いられることもある。ちなみにカトリックの古今の典礼書でも,「これを歌え」という指示のところにこの動詞が用いられていることがある。
「王に向かって」と,突然「王」が出てきたが,実はこの入祭唱に引用されている詩篇第44 (一般的な聖書では第45篇) 全体が,王を讃える歌なのである。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
dilexisti あなたが愛した,あなたが重んじた (動詞diligo, diligereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)
iustitiam 正義を
et (英:and)
odisti あなたが憎む (動詞odi, odisseの直説法・能動態・完了時制の顔をした現在時制・2人称・単数の形)
にもかかわらず例外的に完了時制扱いして訳すべきだと考えられることについては,対訳のところに書いた解説・考察を参照。
iniquitatem 曲がったことを,不正を
propterea それゆえ
unxit 塗油した,注油した (動詞ungo, ungereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
te あなたを (対格)
これを目的語にとっている動詞 "unxit" との関係上,実際に訳すときは「あなたに」とする。「あなたに油を注いだ」。
Deus 神が (主格) / 神よ (呼格)
Deus tuus あなたの神が (Deus:神が,tuus:あなたの)
oleo laetitiae 喜びの油でもって (oleo:油でもって [奪格],laetitiae:喜びの)
手段・道具を表す奪格。上の "unxit" を補足する。
prae ~の前で,~以上に
consortibus tuis あなたの仲間たち (consortibus:仲間たち [奪格],tuis:あなたの)
【詩篇唱】
eructavit 吐き出した,語った (動詞eructo, eructareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
cor meum 私の心が (cor:心が,meum:私の)
verbum bonum よい言葉を (verbum:言葉を,bonum:よい)
dico 私が歌う,私が朗読して披露する (動詞dico, dicereの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)
ego 私が
opera mea 私の作品 (複数) を (opera:作品を,mea:私の)
regi (<rex) 王に
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