祭日「主の降誕」前晩のミサ・入祭唱(グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ15)

 GRADUALE TRIPLEX p. 38; GRADUALE NOVUM II, p. 20.
 毎年12月24日の夕方~晩。ただし実際にはめったに見かけない。下の説明を参照。

 クリスマスに教会に行ってみようかという方も読んでいらっしゃるかもしれないので,まず初めにひとつお断りしておく。たいていのカトリック教会では,いわばメインのクリスマス・ミサである「夜半のミサ(真夜中のミサ)」(本来,12月25日の午前0時ごろから)を24日の晩に前倒しして祝っている。24日の晩の間に複数回ミサをする教会でも,ほとんどの場合,全部「夜半のミサ」の内容で行うはずである。24日の晩には本来,ここで扱う「前晩のミサ」(なおこの呼び方は私が仮に用いているものにすぎず,日本語で定訳・公式用語があるのかどうか知らない)という,内容的にはほとんどクリスマス本番「直前」と言ったほうがよさそうなミサが割り当てられているのだが,そういう都合上,実際にこれが行われることはめったにない。何を申し上げたいかというと,とにかく「クリスマスのミサ」に与りたいなら,何も考えずに24日の晩に行けばまず大丈夫ですよ,ということである。案内に「前夜ミサ」「イヴ・ミサ」などと書いてあってもである。念のためお問い合わせになる場合は,「夜半のミサですか?」と聞くほかに,「福音はマタイですかルカですか?」と聞く方法もある。ルカなら「夜半のミサ」である。まずないと思うがマタイであれば「前晩のミサ」であり,行くと運がよければ(?)アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図を長々と聴くことができる(省かれる場合もある)。
 個人的には,できるものなら一度「前晩のミサ」にも与ってみたいものだと思う。一段階一段階丁寧に味わって,次第に降誕の喜びが輝きを増してゆくというのは,きっと素敵だろう。

 「クリスマス本番直前と言ったほうがよさそうな」と書いたが,「前晩のミサ」で読まれる福音書箇所(マタイ第1章第1節から第25節まで)において,イエス・キリストは実はもう誕生する。しかし,ここにはヨセフとマリアとイエス,それにヨセフにお告げを届ける天使しか登場しない。いわば,ここでは降誕はまだごく内々に秘められたできごとである。これに対して,「夜半のミサ」で読まれるルカ福音書(第2章第1節から第14節まで)では羊飼いたちが登場し,天使から降誕の知らせを受ける。つまり,普通の人々に降誕というできごとが開かれ始める。この意味において,私たち「普通の人々」にとってはルカが読まれる「夜半のミサ」において初めてクリスマス本番が始まるのだ,ということが十分にできると思う。今回訳出する「前晩のミサ」の入祭唱もまたこのことを見事に表しているように,私には感じられる。

TEMPUS NATIVITATIS 降誕節

IN NATIVITATE DOMINI 主の降誕にあたって

AD MISSAM IN VIGILIA 前晩のミサのために

IN[TROITUS] 入祭唱

【全体訳】

Hodie scietis, quia veniet Dominus, et salvabit vos/nos : et mane videbitis gloriam eius.
Ps. Domini est terra, et plenitudo eius : orbis terrarum, et universi qui habitant in eo.

きょうあなたたちは知ることになる,主が来られてあなたたちを/わたしたちを救ってくださるということを。そして朝にあなたたちは見ることになる,彼の栄光を。
(詩篇唱)地とそこに満ちるものは主のものである。全地とそこに住むすべての者は(主のものである)。

【対訳(詩篇唱を除く)】

 アドヴェント第2主日の入祭唱もそうであったように,この入祭唱のテキストは聖書の語句をかなり自由に利用して作られている。本来,そこを詳しく分析したいのだが,クリスマス前の日々というのは教会オルガニストにとって忙しい時期であり,じっくり考えたり書いたりする余裕がないので,今は訳すだけにする。元テキストとの比較は後日,このページに追記する形で行うが,そのときはここnoteとTwitterとFacebookに「追記しました」とお知らせを出す。今年はもうやめて,来年のクリスマス前にする可能性もある。

Hodie scietis, quia veniet Dominus,
きょうあなたたちは知ることになる,主が来られる(だろう)ということを,

et salvabit vos/nos :
そしてあなたたちを/わたしたちをお救いになる(だろう)ということを。
● 写本により「あなたたちを」になっていたり「わたしたちを」になっていたりするらしい。

et mane videbitis gloriam eius.
そして朝に,あなたたちは彼の栄光を見ることになる。

 現れる動詞がすべて未来時制をとっている(その点,なおもアドヴェント的であるといえる)のが特徴的なこの入祭唱の内容について,今は一言だけ述べる。上述のように,このミサで読まれる福音書箇所においては,ヨセフとマリアだけがいるところで降誕の出来事がひっそりと起こる。そのような福音を聞いて,救い主が本当に現れるのだなということを,われわれは「知る」。いわば第一報,ニュース速報を聞いたようなものである。しかしまだ降誕の出来事を目撃してはいない。われわれがそれを見るのは「朝に」である。
 上に書いたように「夜半のミサ」で羊飼いたちが登場して天使から降誕の知らせを受け,これをもってわれわれ普通の人間にとってのクリスマスが始まるが,羊飼いたちが天使から教わったとおりにイエスに会いに行く場面は「夜半のミサ」ではまだ読まれず,「早朝(明け方)のミサ」でようやく読まれる。「あなたたちは彼の栄光を見ることになる」のが「朝に」だというのは,これを指しているのだろうか。

【逐語訳】

Hodie きょう

scietis あなたたちは知ることになる(動詞scio, scireの直説法・能動態・未来時制・2人称・複数の形)

quia ~ということを(英:接続詞としてのthat)
● 本来「なぜなら」という意味の "quia" だが,教会ラテン語ではこの用法も多い。

veniet 来るだろう(動詞venio, venireの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)

Dominus 主が

et(英:and)

salvabit 救うだろう(動詞salvo, salvareの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)

vos/nos あなたたちを/わたしたちを
● 写本により異なる。

et
(英:and)

mane 朝に

videbitis あなたたちは見ることになる(動詞video, videreの直説法・能動態・未来時制・2人称・複数の形)

gloriam eius 彼の栄光を(gloriam:栄光を,eius:彼の)

(詩篇唱)

Domini 主のもの
● 属格が述語的に用いられている。

est である(動詞sum, esse〔英語でいうbe動詞〕の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)

terra 地が

et
(英:and)

plenitudo
充満

eius その(上の "terra" を受け,"plenitudo" にかかる)

orbis terrarum 全地が

et(英:and)

universi すべての者が

qui
(関係代名詞・男性・複数・主格,"universi" を受ける)

habitant
住む(動詞habito, habitareの直説法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)

in eo
そこに(eo:そこ〔奪格〕,"orbis terrarum" を指す)

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