入祭唱 "Factus est Dominus protector meus"(グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ28)

 GRADUALE TRIPLEX p. 281; GRADUALE NOVUM I pp. 251-252.
 gregorien.infoの該当ページ

 年間第8週に歌われる。年間第8週は,復活祭の日取り次第で,四旬節より前(2月末~3月初め,または週全体が3月初め)に置かれることもあれば,復活節より後(5月末~6月初め,または週全体が6月初め)に置かれることもある。

 1969年以前の典礼では,この入祭唱は「聖霊降臨祭後第2主日
〔とそれに続く週〕」に用いられていた(現在も「特別形式」の典礼ではそうである)前回扱った入祭唱 "Domine, in tua misericordia speravi"(年間第7週,1969年以前の典礼では「聖霊降臨祭後第1主日」に続く週)と今回の入祭唱とは,新旧いずれの典礼においても,連続する2つの週に割り当てられていることになる。
 聖霊降臨祭後第2主日の前の木曜日には,キリストの聖体の祭日(聖体の秘跡を,すなわち聖変化したパンとぶどう酒のうちに現存するイエス・キリストを特に記念する日)が祝われる(これは今も同じ。ただし日本などでは日曜に移される)。1955年までは,この日だけでなくそこから8日間(当日を含む。つまり翌週の木曜日が最終日)にわたって祝いが継続することになっていた(今では,このような「8日間」を持っているのは降誕祭と復活祭だけである)。そのようなわけで,聖霊降臨祭後第2主日はかつて「キリストの聖体の8日間中の主日」とも呼ばれた(参考:Volksmissale, Thalwil 2017, p. 517 T)この入祭唱にもひょっとすると,聖体の秘跡との関連を感じさせる要素が含まれているだろうか。

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較など】

FActus est Dominus protector meus, et eduxit me in latitudinem : salvum me fecit, quoniam voluit me.
Ps. Diligam te Domine fortitudo/virtus mea : Dominus firmamentum meum, et refugium meum[, et liberator meus].
【アンティフォナ】主は私の守護者になってくださり,私を広いところへ導き出してくださった。彼は私を救ってくださった,なぜなら私(の存在)を望んでくださったから。
【詩篇唱】私はあなたを尊び愛しましょう,主よ,私の力よ。主は私の支え,私の避難所〔,私の解放者〕。

 元テキストは詩篇第17(一般的な聖書では18)篇であり,アンティフォナに第19節後半と第20節全体が,詩篇唱に第2節全体と第3節のはじめが引用されている。

 詩篇唱の中で "fortitudo/virtus" と記した箇所があるが,ここはGRADUALE TRIPLEXでは "fortitudo" が活字で印刷されており,"virtus" はその上に並べてネウマとともに手書きで記されている。公式には "fortitudo" とするが古写本では "virtus" となっていることもある,ということだと読めるので,実際どうなっているか見てみると(上にリンクを置いたgregorien.info内のページから飛ぶことができる),
● Einsiedelnアインジーデルン, Stiftsbibliothek 121(11世紀初頭)f. 314: "virtus"
● Grazグラーツ, Universitätsbibliothek 807(13世紀)f. 149v(アンティフォナはf. 149rから始まっている): "virtus"
● Romaローマ, Biblioteca Angelica 123(11世紀)f. 153v: "virtus"
● St. Gallenザンクト・ガレン, Stiftsbibliothek 376(11世紀半ば)p. 272: "virtus"
と,ごらんの通り "fortitudo" となっているものは一つもなかった(22の写本を見たが〔一部は直接でなく,AMS=Antiphonale Missarum Sextuplexで〕,これらの4写本以外は詩篇唱を冒頭句しか記しておらず参考にできなかった)。GRADUALE TRIPLEXが "fortitudo" のほうを活字にしているのは,単にVulgataのテキスト(後述)を採用したためだと思われる。グレゴリオ聖歌のもとの姿を再現することを第一目的とするGRADUALE NOVUMは,古写本に従って "virtus" だけを採り,"fortitudo" はいかなる形でも載せていない。
 どちらの語であれ,ここでの意味は「力」あるいは「強さ」であると考えてよい。

 また,最後の "et liberator meus" が括弧に入っているのは,多くの写本ではこの言葉は歌われないことになっているためである(単に記載を省略したのではなく,本当に歌われないことになっていたのが,旋律を示すネウマから明らかに読み取れる。具体的には,直前の句 "et refugium meum" のところに詩篇唱の終止定型が置かれている)。これに該当するのは,上掲4写本のうちEinsiedelnアインジーデルン,Grazグラーツ,St. Gallenザンクト・ガレンの3つで,Romaローマの写本にのみ "et liberator meus" とある。そういうわけで,GRADUALE NOVUMにはやはり "et refugium meum" までしか記されていない。

 "fortitudo/virtus" の箇所をいったん脇に置くと,この入祭唱のテキストは,Vulgata/ガリア詩篇書Psalterium Gallicanumとはアンティフォナも詩篇唱も完全に一致している。ローマ詩篇書Psalterium Romanumもアンティフォナは全く同じテキストになっているが,詩篇唱の第2文は "Dominus"(主が)でなく "Domine"(主よ)という語で始まっており(インターネット上にあるテキストに写し間違いがなければ),これによりこの文は全体が呼びかけになる(「主よ,私の支えよ,私の避難所よ,私の解放者よ」)。
 "fortitudo/virtus" の箇所は,Vulgata/ガリア詩篇書で "fortitudo",ローマ詩篇書で "virtus" となっている。上で私が「GRADUALE TRIPLEXはここでは単にVulgataのテキストを採用したのだろう」と書いたのは,こういうわけである。
 聖歌の古写本(上掲の4写本)は,"Dominus/Domine" の箇所についてはVulgata/ガリア詩篇書に,"fortitudo/virtus" の箇所についてはローマ詩篇書に一致しているわけである。単純ではない。こんな細かい違いだけに,一口にローマ詩篇書・ガリア詩篇書といっても,聖書(詩篇)の写本を作成する過程で個々の語が置き換わってしまった(その結果,一方の要素が他方に混入したような形になった)ことも十分に考えられる。

【対訳,解説,考察】

【アンティフォナ】

Factus est Dominus protector meus,
主は私の守護者になってくださった,

et eduxit me in latitudinem :
そして私を広いところへ導き出してくださった。
別訳:そして私を広いところへ脱出させてくださった。
解説:
 「広いところ」とは「安全な所」のことだと,光明社旧約聖書の註にある。

salvum me fecit,
彼は私を救ってくださった,
解説:
 前々回も現れた形だが,「救われた状態に私をした」という言い方をしている。

quoniam voluit me.
なぜなら彼は私(の存在)を望んでくださったから。
別訳:なぜなら彼は私を愛してくださったから。
解説:
 ヘブライ語原典から訳された一般的な聖書では,ここは「なぜなら彼は私を喜んだから」「なぜなら彼は私を喜びとしたから」といった訳になっていることが多い。七十人訳から訳されたものも2つ見たが(1つはいつものSeptuaginta Deutsch,もう一つはオンラインで利用できる英訳),やはりそうなっている。
 ところがこのラテン語文は少し異なる言い方をしている。動詞volo, velle (>voluit) は「望む」「欲する」という意味なので,素直に読めば上の第1の訳のようになるのである。ほかに手元の教会ラテン語辞典には「愛する(独:liebhaben)」という訳語も載っており,それに従えば別訳のようになる。Septuaginta Deutschの註によれば,七十人訳も「望む,欲する(独:wollen)」あるいは「愛する(独:lieben)」と読みうるようなので,ラテン語訳を作成したり改訂したりした人々(最終的には第2期のヒエロニムス)は七十人訳をそう読んだということなのだろう。
 いずれにせよ,「彼(主)」が「私」を喜んだ,愛した,つまり肯定したという主旨に変わりはないが,個人的には,その「存在の肯定」が最も直接表現されているのは「彼は私(の存在)を望んだ」という言い方ではないかと思い,それゆえこのラテン語文の字義通りの意味を大切にしたいと思うのである。
考察:
 この入祭唱が1969年以前の典礼で用いられていた聖霊降臨祭後第2主日が1955年までは「キリストの聖体の8日間中の主日」でもあったことには先に触れた。これを念頭に置いてこの部分を読むと,私には次の言葉が直ちに想起される。

イエスを死者の中から復活させた方の霊が,あなたがたの内に宿っているなら,キリストを死者の中から復活させた方は,あなたがたの内に宿っているその霊によって,あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。(新約聖書,ローマの信徒への手紙第8章第11節,聖書協会共同訳)

死すべき者である人間に,復活者であるキリストの聖体が与えられ,これにより人は地上にありながら既に復活の生命に与る者となってゆく,というのが聖体の秘跡であると考えるならば,この秘跡はまさに神が「私の存在を望」む(死ぬのではなく生きることを望む)ことが形になったものであるといえるだろう。あるいは,こういう宗教的・神学的な話を敢えて一切抜きにするならば,聖体の秘跡というのはつまり食物を与えることであって,食物を与えるというのはつまり生きろと言うことではないか。

【詩篇唱】

Diligam te Domine fortitudo/virtus mea :
私はあなたを尊び愛しましょう,主よ,私の力よ。

Dominus firmamentum meum, et refugium meum[, et liberator meus].
主は私の支え,私の避難所〔,私の解放者〕。
解説:
 動詞がない。ラテン語にはよくあることだが,英語でいうところのbe動詞が省略されていると考える。そういうわけで訳文は,好みによっては最後を「~である」,「~です」などとしてもかまわないことになる。

【逐語訳】

Factus est なった(動詞fio, fieriの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・3人称・単数の形)

Dominus 主が

protector meus 私の守護者〔に〕(主格)
● "Dominus" と同格(主格)の要素を置いて動詞 "Factus est"「なった」 を補い,「何に」なったのかを示す。

et(英:and)

eduxit
(何かの内部にあったものを外部へと)引き出した,脱出させた(動詞educo, educereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

me 私を

in latitudinem 広いところへ(latitudinem:広さ,広いところ〔対格〕)

salvum 救われた状態の(に),健康な(に)(形容詞)(対格)
● 次の "me"「私を」 と同格(対格)の形容詞を置いてその次の動詞 "fecit"「した」を補い,私を「どのような状態に」したのかを示す。

me 私を

fecit
した(動詞facio, facereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

quoniam なぜなら~からだ

voluit 彼が望んだ,彼が欲した,彼が愛した(動詞volo, velleの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

me 私を

【詩篇唱】

Diligam 私が尊ぼう,私が大切にしよう,私が愛そう(動詞diligo, diligereの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
● 接続法・現在時制も同形だが,文脈上ここは直説法・未来時制でよいだろう。
● 意志未来。

te あなたを

Domine
主よ

fortitudo/virtus mea 私の力よ,私の強さよ(fortitudo/virtus:力よ,強さよ,mea:私の)
● "fortitudo" が「力」で "virtus" が「強さ」だということではない。どちらの語も「力」あるいは「強さ」と訳しうるということである。
 なお "virtus" には本来「男らしさ」(原義)や「徳」といった意味の広がりがあるが,今までのところ,グレゴリオ聖歌のテキストでは単に「力」と解釈すればよかった(それが一番自然だった)し,今回もそうだと思われる。

Dominus 主が

firmamentum meum 私の支え,私を強めるもの(主格)(firmamentum:支え/強めるもの〔主格〕,meum:私の)

et(英:and)

refugium meum 私の避難所(主格)(refugium:避難所〔主格〕,meum:私の)

et(英:and)

liberator meus
私の解放者,私を自由にする者(主格)(liberator:解放者/自由にする者〔主格〕,meus:私の)

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