入祭唱 "Ad te levavi animam meam" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ11)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 15; GRADUALE NOVUM I p. 3.
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更新履歴

2022年11月17–18日 (日本時間17–19日)

  •  "etenim universi qui te exspectant, non confundentur" の新しい解釈を加え,それに伴い,「対訳」の部における解説を大幅に増補した。全体訳でもこの新解釈を採った (が,これが最適だと確信しているわけではない)。「対訳」の部には以前からの解釈も残してある。

  •  第2文冒頭の "Deus meus" は第1文に属するとみるべきかもしれないことについて,詳細な解説とともに「対訳」の部に加筆した。当然,これは演奏のしかたにも関わってくる問題である。(11月18 [日本時間19] 日,私個人の感覚ではどうかということを追記した。)

  •  現在の方針に合わせた諸変更を行なった (タイトルの変更,「教会の典礼における使用機会」および「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」各部の新設)。

2022年2月13日

●  "exspectant" の綴りが誤っていた (sを抜かしていた。いや,時代によってはこれでもよいのだが,少なくともGRADUALE TRIPLEXではきちんとsが入っている) ので直した。

2021年12月21日

●  冒頭にYouTube動画を埋め込んだ。本文に変更はない。

2018年11月26日

●  "etenim universi qui te exspectant, non confundentur" の訳を変え,その際考えたことも記した。

2018年11月25日 (日本時間26日)

●  投稿


【教会の典礼における使用機会】

 昔も今もアドヴェント (待降節) 第1主日に割り当てられており,基本的にはそれに続く週日 (平日) にもだいたい用いられる。ただし2002年版ミサ典書では,アドヴェントにおいては週日にも毎日異なる入祭唱が指定されているため,これに厳密に従うならば今回の入祭唱を歌うのは主日のみということになる。
 アドヴェント第1主日は典礼暦上の一年の最初の日であり,その最初に歌われるこの入祭唱は,特に有名なグレゴリオ聖歌の一つとなっている。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Ad te levavi animam meam: Deus meus in te confido, non erubescam: neque irrideant me inimici mei: etenim universi qui te exspectant, non confundentur.
Ps. Vias tuas, Domine, demonstra mihi: et semitas tuas (e)doce me.
【アンティフォナ】あなたに向かって,私は自分の魂を高く上げました。私の神よ,あなたを信頼します,私が赤面することがありませんように。私の敵どもが私を嘲笑うこともありませんように。というのも,すべてあなたを待ち望む者は,恥を見ることがあってはならないのですから。(←「あってはならない」は原則通りの訳ではない。詳しくは「対訳」の部を参照されたい。)
【詩篇唱】あなたの道を,主よ,私に示してください。また,あなたの小道を私に教えてください。

 アンティフォナの出典は詩篇第24篇第1–3節 (一般的な聖書では第25篇第1–3a節) であり,詩篇唱にも同じ詩篇が用いられている (ここに掲げられているのは第4b節 [一般的な聖書では第4節])。

 アンティフォナのテキストはローマ詩篇書ともVulgata=ガリア詩篇書 (これらの詩篇書についての解説はこちら) ともだいたい同じだが,ローマ詩篇書では "exspectant" の次に "Domine (主よ)" という呼びかけが入っており,ガリア詩篇書ではこの "exspectant" のところが "sustinent" となっている (意味はこの文脈ではだいたい同じ)。
 しかしそれより重要な違いは,ローマ詩篇書でもガリア詩篇書でも冒頭の "Ad te" に続いて現れる "Domine (主よ)" という呼びかけが,このアンティフォナでは省略されていることである。このことが持ちうる意味については,「対訳」の部において "Deus meus in te confido, non erubescam" の解説のところで述べる。

 詩篇唱は珍しく詩篇の冒頭ではなく途中 (第4節) から始まっているが,これはアンティフォナが同じ詩篇の第1–3節であるため,その続きから入るようにしたものだと考えられる。ただし,第4節は本当は "Confundantur omnes iniqua agentes supervacue (理由もなく不正を為す者すべては恥を見ますように/破滅しますように)" と始まるところ,この部分は省略されている
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Ad te levavi animam meam:
あなたに向かって,私は自分の魂を高く上げました。
別訳:あなたに向かって,私は自分の魂を起こして立たせました。

  •   「高く」に相当する語はないのだが,「自分の魂を上げました」だと日本語として少なくとも私はやや違和感があるので,こうした。なお,もっと肉体的な言葉を用いて「持ち上げました」とするのもありではないかと思う。

  •  ここで2通りに訳した動詞 "levavi" について,詳しくは逐語訳を参照。

Deus meus in te confido, non erubescam:
私の神よ,あなたを信頼します,私が赤面することがありませんように (してください)。

  •  この "Deus meus (私の神よ)" は,ここではなく前の文に属するものと捉えたほうがよい可能性がある (第1文の終わりにコロンがついているが,グレゴリオ聖歌のテキストの句読点は本来はなく後で加えられたものなので,このような問題を考えるときには無視してよい)現在の聖書 (Nova Vulgataも含む) ではこの「私の神よ」を第2節のはじめに入れているが,さまざまな古いラテン語訳詩篇では第1節の終わりに入れられていることがどうも多いのである。それらのもとになった七十人訳ギリシャ語聖書でもそうなっている (ただしSeptuaginta Deutschの註によると,七十人訳でも写本によっては第2節のはじめに入れているらしい)。

  •  このような2通りの区切り方が生まれてしまった原因は,ヘブライ語原典そのものに求められると考えられる。
     現在ヘブライ語聖書として通用しているマソラ本文では「私の神よ」のに文の終わりを示す記号 (日本語でいう句点) がついており,第1節の終わりをここに置く (「私の神よ」から第2節が始まるとする) のはこれに基づいたものであろう。そして,詩篇では基本的に節の替わり目で改行するので,ここで改行して「私の神よ」が行頭に置かれることになりそうなものである。
     ところが,実際にはそうなっておらず,改行は「私の神よ」の後で行われている。これには,この詩篇第25 (24) 篇が「アレフベート (アルファベット) による詩」であること,すなわち,各詩行の最初の文字としてヘブライ語の文字 (アレフベート) を順番に用いてゆくという技法が用いられていることが関わっている。つまり,2番めの詩行はヘブライ語の第2の文字「ベート」で始まるようにしたいわけだが,「私の神よ」に当たる語は「ベート」では始まらず,その次の「あなたを」に当たる語が「ベート」で始まるので,こちらが行頭に置かれている (そうなるように,「私の神よ」と「あなたを」との間で改行されている) のである。七十人訳 (の主要な写本) が「私の神よ」を第1節に含めたことには,主に以上のような事情があったものと考えられる。

  •  もとのラテン語詩篇では冒頭の "Ad te" の次に置かれている "Domine" という呼びかけがこのアンティフォナでは省略されていることを先に述べたが,この省略の理由がここにあるとも考えられる。"Deus meus" という呼びかけが第1文に属するのであれば,もう一つの呼びかけ "Domine" は余計になる,ということ。

  •  なお,Godehard Joppichゴーデハルト・ヨッピヒは純粋にネウマの観点から,"Deus meus" の前ではなく後に区切りを入れるべきであると (GRADUALE TRIPLEXでもNOVUMでも "Deus meus" の前に中区分線が置かれているが,ここに置いてよいのは小区分線だけであり,より大きな区切りを入れてよいのはこの呼びかけが終わってからであると) 述べている。"meam" についているTorculus + エピゼマ付きClivisは閉じる・弛緩する形ではなく,より重要な次の言葉へと向かってゆくもの,いわばクレッシェンドである,とのこと。(参考:同氏の論文 "Die Liqueszenz. Eine semiologische Studie im Codex Hartker St. Gallen 390/391"。"Cantate canticum novum. Gesammelte Studien anlässlich des 80. Geburtstages von Godehard Joppich" という本のpp. 313–388に収められており,本件に関してはp. 340。同論文は "Beiträge zur Gregorianik" 誌の第68号 [2019年] と第69号 [2020年] にも掲載されており,本件に関する記述は第69号 [2020年] のp. 53にある。)

  •  ここまで "Deus meus" を第2文ではなく第1文に属させる可能性について述べてきたが,この問題についての私個人の感覚を述べておく
     まず音楽的には,やはり "meam" の旋律に終止を感じるので (中世の人々がどう感じていたかは知らないが),GRADUALE TRIPLEXやNOVUMに記されている通りここで区切り,"Deus meus" で次のフレーズを始めるほうが自然に感じられる。また,この "Deus meus" から次の "in" への6度下行がグレゴリオ聖歌の旋律としては最大の音程による跳躍であり,それにより "Deus meus" の高音ぶり (叫びぶりともいえるだろうし,いかに高く「魂を上げ」ているかの表現ともいえるだろう) がよく表現されているというのはしばしば言われることだが,この6度下行に6度下行としての意味・効果を存分に持たせるには,これがフレーズの切れ目ではなくフレーズの途中に現れるものだと捉えるほうがよいのではないかと思う。
     また言葉の上からも,これはいよいよ単に好みの問題なのだが,第1文から切々たる思いを抱えつつも口にせず抑えていた「私の神よ」という呼びかけが第2文に至りついに溢れ出る,いや爆発する (その爆発ぶりがこの高音に表れている) という見方のほうが魅力的だと感じ,そのためにはこの呼びかけを第2文に属するものと見たい (第1文の中でもう呼びかけてしまうとなると,「抑えていた」感じが出ない)。ただし,切々たる思いが高まってゆくのであるから,Joppichの主張のうち「"meam" で弛緩するのではなくクレッシェンドしてゆくのだ」という点にはむしろ賛成である。
     以上を踏まえて実践的・具体的には次のようにしたいと思う。フレーズの認識としては "meam" までで1単位と捉え,したがってここでそれなりの間を置きはするが,決してここで閉じることなく強力に次の呼びかけに向かってゆく。そしてその勢いの到達点として "Deus meus" を歌い上げ,歌い上げた後なので息をついてから次に進む,ただしフレーズはあくまで "Deus meus" から続いているものと見る。……実際にこのように考え・感じて歌ったら結果的に "meam" の次より "Deus meus" の次のほうが長い間になる,つまり結局Joppichの主張の通りになる,ということは十分にありうる。

  •  この入祭唱アンティフォナと全く同じ聖書箇所に基づく奉納唱があるが (同じくアドヴェント第1主日用),そちらではもとのラテン語詩篇通りに "Ad te Domine levavi" と始まり,そして明らかに "Deus meus" の前に区切りが置かれている (また,入祭唱 "Reminiscere" や "Oculi mei" では同じテキストが詩篇唱として登場するが,そこでも同様)。
     同じグレゴリオ聖歌でもこのように同一テキストの解釈が分かれている (かもしれない) あたり,成立時期が比較的大きく違うのかもしれない,と個人的には思っている。

neque irrideant me inimici mei:
私の敵どもが私を嘲笑うこともありませんように (してください)。

etenim universi qui te exspectant, non confundentur.
というのも,あなたを待ち望むすべての者は,恥を見ることがあってはならないのですから。
別訳1:実に,(……)。
別訳2:だって,あなたを待ち望むすべての者は,恥を見ることはないのでしょう?

  •  "confundentur" は「破滅する」とも訳せるが,ヘブライ語聖書や七十人訳ギリシャ語聖書に従い「恥を見る」とした。

  •  この "confundentur" は直説法・未来時制であるから,原則に従えば "non confundentur" は「恥を見ることはないでしょう」「恥を見ることはないはずです」などと訳すべきところである。それなのに「恥を見ることがあってはならない」と,接続法・現在時制 (要求話法) のように私が訳すのはなぜか。
     グレゴリオ聖歌のもとになっているラテン語詩篇はヘブライ語聖書ではなく七十人訳ギリシャ語聖書からの翻訳だが,実は,七十人訳ではこの "confundentur" にあたる動詞は直説法・未来時制ではなく接続法・アオリストになっており (καταισχυνθῶσιν),その直前に否定詞μὴがついている。詳しい話は省くが,とにかくこの「否定詞μὴ + 接続法・アオリスト」の形は「禁止 (否定の命令)」を表しうる形である
     そうはいってもラテン語では直説法・未来時制になっているのだから,七十人訳がどうであろうとあくまで直説法・未来時制として解釈しなければならないように思ってしまう。ところが,実はラテン語の直説法・未来時制は接続法・現在時制の代わりに用いられることがあり (その逆もある。参考:國原,p. 87),ここでまさにそれが起きているのだと捉えるならば,七十人訳と同じく要求話法 (「恥を見ることがあってはならない」) と解釈することが可能になる。なお,そもそも両者の間には強い連続性があることなどなどについて解説したRikuさんの素晴らしい記事があり,このような話にご興味のある方にはご一読を強くお勧めしたい。

  •  そしてこのように解釈するならば,前の文と論理的にうまくつながる。「私が恥を見ることがありませんように。敵が私を嘲笑うこともあってはなりません。というのも,すべてあなたを待ち望む者は,決して恥を見ることがあってはならないのですから」。

  •  それでもこれをあくまで直説法・未来時制として解釈するならば,「すべてあなたを待ち望む者は,恥を見ることはないでしょう (ないはずです)」ということになるが,こうすると前の文とのつながりがおかしくなる (と少なくとも私は思う)。「私が恥を見ることがありませんように。敵が私を嘲笑うこともあってはなりません。というのも,すべてあなたを待ち望む者は恥を見ることがないでしょう (ないはずです) から」。「私」も「あなたを待ち望」んでいる者たちの一人である以上,「恥を見ることがない」であろう者に含まれることになる。そうであれば,「私が恥を見ることがありませんように」と願う必要はない。つまり,「あなたを待ち望む者は恥を見ることがないはずだ」ということを「私が恥を見ることがありませんように」の理由・根拠として挙げる ("etenim [というのも]" でつなぐ) のはおかしいことになる。
     それでもこの接続詞 "etenim" を生かすならば,これは「恥を見ることはないはずなのでしょう,私にもそうしてくださいよ」という念押しであると考えるほうが自然だと思う。「私が恥を見ることがないようにしてくださいよ,だってあなたを待ち望む者である限り失望することはないんでしょう,私だけ例外なんて言わないでくださいよ」,これならうまくつながると思うので,そしてそういう感じにこの2つの文をつなぐ語としてより適当なものを思いつかなかったので,突然くだけた調子を感じさせるにもかかわらず,この解釈に基づく別訳では "etenim" の訳語として敢えて「だって」という語を採用した。

  •  この別訳の最後,「~ないのでしょう?」が思い切りすぎだと思われる方には,「~ないはずではありませんか」という訳を提案しておく。

  •   「直説法・未来時制と接続法・現在時制は互いの代わりに用いられることがある」という知識に基づいて考えるならば,ここの "non confundentur" は原則通り直説法・未来時制と考えた上で,前の "non erubescam" および "neque irrideant" (ここまでの叙述では一貫して,この両者は接続法・現在時制と解釈している) を直説法・未来時制扱いすることにより,上記とは別の形で論理を明快にするのも理論上は可能だということになる (なおこの2つのうち "non erubescam" はもともとどちらとも取れる形である)。しかし七十人訳に従うならば,やはり上述のようにすべて接続法・現在時制 (要求話法) 扱いするほうがよい。七十人訳では "non erubescam" にあたる箇所が希求法,"neque irrideant" にあたる箇所が命令法,そして "non confundentur" にあたる箇所が既述の通り「否定詞 + 接続法・アオリスト」であり,いろいろな法が用いられているが要するにすべて要求話法だからである。

【詩篇唱】

Vias tuas, Domine, demonstra mihi:
あなたの道を,主よ,私に示してください。

et semitas tuas (e)doce me.
また,あなたの小道を私に教えてください。

  •  グレゴリオ聖歌を記した昔のいろいろな写本のうち,あるものは "edoce",あるものは "doce" としているらしい。どちらも「教えてください」だが,"edoce" のほうがしっかり詳細に教えるという意味である。Vulgataでは "edoce"。
     

【逐語訳】

【アンティフォナ】

ad te あなたのほうへ,あなたを目指して (te:あなた [対格])

levavi 私が上げた,私が起こした/立たせた,私が軽くした (動詞levo, levareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)

  •  いろいろな参考資料を見る限り,基本的には「上げた」と訳すところであるようだが,「対訳」の部においても示したように,「起こした」「立たせた」とも訳せる。もしこちらの解釈をとるとすれば,魂がそれまで倒れていたということが前提となるので,この入祭唱が少し別の意味合いを帯びてくることになり,個人的にはこれは捨てがたいものがある。

  •  3番目に書いた「軽くする (した)」という意味は,実はこの動詞のもともとの意味である。「対訳」の部では特に訳例を書かなかったが,この意味にとることも不可能ではないと思う。重くなっていた (絶望していた) 魂をもう一度だけ何とか「軽く」して神に望みをかけてみた,ということになる。

  •  時制について。ヘブライ語から訳した普通の聖書では現在形になっていることがほとんどだと思うし,少なくともドイツ語の現役の典礼文でも現在形になっているが,このラテン語テキストでは完了時制である (七十人訳ではアオリスト,要するに単純な過去)。完了時制だということは,この入祭唱の「私」は自分の魂を既に「あなた」に向かって「上げてしまった」状態である,つまり神に既に賭けてしまった状態である。もし報われなかったら「敵ども」に「嘲笑」われざるを得ない状態に既になってしまっている。そんな状態での必死の祈りである,という読み方もできるのかもしれない。

animam meam 私の魂を (animam:魂を,meam:私の)

Deus meus 私の神よ (Deus:神よ,meus:私の)

in te あなたを (te:あなた [奪格])

  •  "te" は対格でもありうる形だが,"confido" (次に現れる) とともに使われる "in" は奪格をとるそうなので。

confido 私が信頼する (動詞confido, confidereの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

non erubescam 私が赤面することがありませんように (nonは否定詞。erubescamは動詞erubesco, erubescereの接続法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

  •  "erubescam" は形からすると直説法・未来時制でもありうるのだが,次の "irrideant" という明白に接続法・現在時制である動詞と並列されていることなど (「など」の内容が気になる方は,「対訳」の部のうちアンティフォナに関する部分の最後をお読みいただきたい) から,これも接続法・現在時制ととる。

  •  赤面するとはつまり恥をかく,恥を見るということだが,聖書で「恥を見る」というのは,銘形秀則牧師によると「ずっと期待し、信頼してきたことが崩れて失望落胆すること」だそうである (こちらも参照)。

neque (英:nor, and not) (以下を否定する否定詞 "ne" に,英語でいう "and" を意味する "-que" がくっついたもの)

irrideant 嘲笑しますように → 直前の "neque" と合わせて,「嘲笑しませんように」(動詞irrideo, irridereの接続法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)

me 私を

inimici mei 私の敵たちが (inimici:敵たちが,mei:私の)

  •  ここまでの数語で「私の敵たちが私を嘲笑しませんように」だが,これはすぐ前の「私が赤面することがありませんように」の言い換えと考えられる。つまりこの「嘲笑」とは,「あいつは神を信頼していたというが,神なんか信じたって何も起きなかったではないか,何にもならなかったではないか」という嘲笑である。

etenim だって,じっさい,なぜなら,というのは,そして

  •  いろいろな意味・ニュアンスを持つ語であり,正直に言うと,辞書を見ても十分つかみきれないでいる。Vulgata全体ではどんな意味で用いられているのかと思い,コンコルダンスを用いて "etenim" が現れる箇所を調べ,そこがVulgataからの英訳聖書 (Douay-Rheims 1899 American Edition) でどう訳されているかだけざっと見てみたが,多くは (接続詞としての) "for",つまり「なぜなら」「というのは」だった。しかしほかに,"yea", "and", "but", "even" というのもあった。

  •  今回実際にどう訳すかは,この前後の文をどう捉えるかによる。「なぜなら」「というのは (というのも)」でうまくつながるならばそれでよいだろうが,解釈によってはそれではうまくゆかない (と少なくとも私は思う)。このあたりについては「対訳」の部で詳しく述べた。

universi すべての人が (名詞化した形容詞,男性・複数・主格)

  •   「すべての」という意味の形容詞が名詞化して「すべての人」の意味で用いられているもの。男性・複数の形になっているが,「すべての男」ではなく「すべての人」の意味である (名詞化した形容詞が人間を指すときは,必ず男性形もしくは女性形を用いる [中性形は用いない]。男女両方含むときは男性形で代表させることになっているだけ)。

qui (関係代名詞,主格・男性・複数。直前の "universi" を受ける)

te あなたを

exspectant 待ち望む (動詞exspecto, exspectareの直説法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)

non confundentur 破滅しないだろう/しないはずである,恥を見ないだろう/見ないはずである (nonは否定詞。confundenturは動詞confundo, confundereの直説法・受動態・未来時制・3人称・複数の形)

  •  これを接続法・現在時制の意味に取る可能性について,「対訳」の部で詳しく述べた。

【詩篇唱】

vias tuas あなたの道を (vias:道を [複数],tuas:あなたの)

Domine 主よ

demonstra 示してください (動詞demonstro, demonstrareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

mihi 私に

et (英:and)

semitas tuas あなたの小道を (semitas:小道を [複数],tuas:あなたの)

(e)doce 教えてください,授業してください (動詞[e]doceo, [e]docereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

  •   「対訳」の部で述べた通り,"edoce" だと詳しくしっかりと教えるというニュアンスになるらしい。

me 私に (対格)

  •   「私教育してください」と言い換えると,対格であることが少し感覚的に分かりやすいだろうか。

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