バッハの和声の魅力と難解さの秘密:transitus irregularis

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 バッハの和声をとりわけ味わい深くし,かつ把握しづらくしてもいるのが,拍節上相対的に強い位置にくる経過音・刺繍音の多用である。このような経過音・刺繍音はtransitus irregularisトランシトゥス(トランジトゥス)・イッレグラーリス,すなわち「イレギュラーなtransitus」と呼ばれる("transitus" は経過音・刺繍音双方を含む概念。ラテン語だが音楽理論の用語として今も用いられる)。何がイレギュラーかというと,この拍節上の位置である。というのも,経過音・刺繍音はふつう,それが飾る和声音よりも拍節上弱い位置にくるのであり(こういうのはtransitus regularisレグラーリス,「レギュラーなtransitus」と呼ばれる),そうであるかぎりはあまり耳につかない。しかし,transitus irregularisは目立つ。目立つばかりでなく,なんといってもしばしば和音が交替すると同時に現れるので,特にバスに現れた場合など,一瞬,何の和音に切り替わったのか分かりづらい。時にきつい不協和を生んでいることもあり,ともかく音楽をタテに把握することを格段に難しくしている(上の譜例程度のものであればそうでもないが)。だが,この瞬間に生じる耳慣れない響きには大きな魅力がある。

 そんなtransitus irregularisの用例のうち,個人的に特に好きなのはこれ。

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バッハ・コラールにはわりと頻出する。属七の和音の第3転回形(つまり第7音がバスにある形)が主和音に解決するとき,和音が切り替わるより前にバスが解決音に下りてしまい,和音交替したときにはさらに下に行ってしまっている,というもの。そしてこの和音交替点にtransitus irregularisがある。

 私がこの形に注目するようになったきっかけであり,かつこれの用例として今なお最も印象的なのは,受難のコラール "O Mensch, bewein' dein' Sünde groß" (BWV 402,偽作説あるがあまりに素晴らしいので私は勝手に真作と決めつけている)の最終行である。

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この直前の行に音楽上のクライマックスが来ていることもあり,十字架における極限の苦しみ=緊張のあと,体の力が抜けてゆくさまが,この半拍早すぎるバスの弛緩とさらなる下行に,またこの苦いような甘いような和音交替の瞬間に,この上なくよく表現されている,と感じる。


 最後に,≪平均律クラヴィーア曲集≫第1巻のト長調のフーガから。

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練習していて,なんか引っかかるなと思って(いや,≪平均律≫はここに限らず引っかかるところだらけなのだが)よく見てみたら,まさに上で紹介した私の好きな形だったものだから,ついこれを書き始めたというわけである。好きな形なので,どのみちいつかは書いたことだろうと思うけれど。

(昨夜のFacebookへの投稿に少し加筆・修正したもの)

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 また,noteとは別個に運営している私のBlog(↓)で各4声コラールの歌詞対訳・逐語訳を行なっているほか,1784-87年版コラール集へのC. P. E. バッハによる序文の全訳(詳細な訳註つき)も載せています。この序文は,バッハ・コラールに取り組むならば是非とも一度お読みになることをおすすめしたいものです。どうぞご利用ください。

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