入祭唱 "Resurrexi" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ73)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 196; GRADUALE NOVUM I p. 165.
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【教会の典礼における使用機会】

 昔も今も,復活の主日・日中のミサで歌われる。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Resurrexi, et adhuc tecum sum, alleluia: posuisti super me manum tuam, alleluia: mirabilis facta est scientia tua, alleluia, alleluia.
Ps. Domine probasti me, et cognovisti me: tu cognovisti sessionem meam, et resurrectionem meam.
【アンティフォナ】わたしは復活しました,そして今なおあなたとともにおります,ハレルヤ。あなたはわたしの上に御手をお置きになりました,ハレルヤ。あなたの知識 [の啓示] は驚くべきものになりました,ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】主よ,あなたは私をお試しになり,私を認識なさいました。あなたは私が座っているのも再び立ち上がるのも認識なさいました。

 アンティフォナのもとになっているのは詩篇第138 (ヘブライ語聖書では第139) 篇第18節後半と第5–6節の一部とであり,テキストはローマ詩篇書に基づいていると考えられる (Vulgata=ガリア詩篇書では最初の "resurrexi" が "exsurrexi" となっている)。(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)
 "alleluia (ハレルヤ)" はもとの詩篇にはないが,特殊な付加要素というわけではない。復活節の典礼においては,いたるところでハレルヤをつけて歌ったり祈ったりするようになっているのである。

 詩篇唱で歌われるのも同じ詩篇であり,テキストはやはりローマ詩篇書に一致している (Vulgata=ガリア詩篇書では "resurrectionem" が "surrectionem" となっている)。

 "Resurrexi (わたしは復活した)" という最初の語から分かるように,この入祭唱で歌われるのはイエス・キリスト自身の言葉,それも彼が父 (父なる神) と話している言葉である。旋律はそれにふさわしく,私たちには測り知ることのできない三位一体神の中での対話の前に静まっているような,ごく控えめな表現となっている (狭い音域の中で動いている)。この意味での類例に,主の降誕・夜半のミサの入祭唱 "Dominus dixit ad me" がある。
 福音書中の言葉ならともかく,詩篇 (旧約聖書に属する) の言葉をイエス・キリストのものとして聞くというのはおかしいのではないかと思われるかもしれないが,これは教父以来の伝統的な詩篇の読み方の一つである。別の記事でも述べたが,教父たちは,詩篇を「キリストへの祈り」「キリストについての祈り」「キリストの教会についての祈り」「キリストによる祈り」「キリストの教会による祈り」のいずれかとして,つまり何らかの形でイエス・キリストに関連づけて読んでいるのである (参考:Klöckner, Handbuch Gregorianik, 2010年第2版,p. 180)。そして今回の入祭唱のもとである詩篇第138 (139) 篇は,アウグスティヌスカッシオドルスの詩篇講解においてイエス・キリストの声 (キリストによる祈り) として読まれている。
 
ちなみに,日本語版のアウグスティヌス『詩篇講解』においてこの詩篇の講解を含む巻 (最終巻である第6巻) は,今年 (2023年) 6月に発売される予定である
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Resurrexi, et adhuc tecum sum, alleluia:
わたしは復活しました,そして今なおあなたとともにおります,ハレルヤ。

  •  信頼をもって意識を手放して (「父よ,わたしの霊を御手に委ねます」ルカ23:46) 死の眠りについたところ,父なる神は信頼を裏切ることなく自分を目覚めさせてくれた,やはりともにいてくれた,という状況。

posuisti super me manum tuam, alleluia:
あなたはあなたの手を私の上にお置きになりました,ハレルヤ。

mirabilis facta est scientia tua, alleluia, alleluia.
あなたの知識は驚くべきものになりました,ハレルヤ,ハレルヤ。
別訳:あなたについての知識は (……)

  •  もとの詩篇では "scientia tua" の後に "ex me" とあるのがここでは省かれている。Sleumerの教会ラテン語辞典の "e/ex" の項でこの箇所が説明されており,それによると,この "ex" は,英語でいう比較のときの "than" にあたる働きをすることがあるヘブライ語「ミン」が,「ミン」の別の意味である "ex (英:out of, from)" に訳されてしまった (正確にいうと,七十人訳ギリシャ語聖書がそのような訳をしてしまい,ラテン語がそれをそのまま引き継いだ) ものだという。つまり,"ex me" を含めたこの文全体は,本来「あなたの知識は私 (の理解力・把握力) よりも驚くべきものになりました」という意味らしい。

  •  "ex me" を文字通りにとって「私からのあなたの知識」と読むならば,「私」(イエス・キリスト) に関する「知識」は今や死と復活という究極のできごとをも含む「驚くべきものに」なった,ということだとも考えられる。

  •  いずれにせよ,そして "ex me" をつけて考えるにせよ除いて考えるにせよ,神の知識が驚くべきものに「なった」というのはおかしい。神であればもともとすべてを知っているはずだからである。カッシオドルスはこの箇所を,イエス・キリストの死と復活を通して人類に啓示された神の知識が驚くべきものになったのだと (神の知識そのものが増したのではなく,人類による認識が大いに進んだのだと) 説明している (参考:カッシオドルス『詩篇講解』英訳版第3巻pp. 374–375)。

  •  あるいは "scientia tua" を「あなたについての知識」と解してしまうこともできるだろう (所有形容詞の目的語的用法。いわゆる「目的語的属格」に準ずるもの)。そう訳している例は手元にはないが。

【詩篇唱】

Domine probasti me, et cognovisti me:
主よ,あなたは私をお試しになりました,そして私を認識なさいました。
別訳:(……) そして私を知っていらっしゃいます。

  •   「お試しになりました」という言葉が意味するのは何か,タイミング (復活の主日) 的にはなんといっても十字架における死のことを思わされるが,カッシオドルスはさらに,罪人でないイエスが敢えて洗礼を受けたこと (謙遜の試験,また罪人たちの間に入ってゆき彼らを救う覚悟の試験) および砂漠での悪魔による試みを挙げている (参考:カッシオドルス『詩篇講解』英訳版第3巻pp. 372–373)。
     砂漠での試みの記事は四旬節第1主日に朗読されるので,このように解すれば四旬節全体を振り返っているように感じられるし,さらにイエスの受洗のことまで考えるというのならば「主の洗礼の祝日」(1月10日前後) 以来の日々の総まとめのようにも感じられる。

  •  カッシオドルスは,神はもともと何もかも知っているのだから,「私を認識なさいました」という言葉は「私を (人々に) 認識される/知られるものとなさいました」の意味に解すべきだと述べている (参考:同書p. 373)。

  •   「認識なさいました」と訳した完了時制の動詞 "cognovisti" は,この時制で「知っている」という現在の状態の意味にもなる (別訳)。文法上の例外というわけではなく,「認識した/知るようになった」ので今は「知っている」,という論理的な話である。
     といっても,七十人訳ギリシャ語聖書にさかのぼるとここは直説法・アオリストという形になっており,これは過去のある時点で起きたことを述べるだけで,それにより現在どうなっているかは表さない (それを表すのは完了形)。これに基づいて考えれば,「認識なさいました」という訳を採るほうがよさそうである。

tu cognovisti sessionem meam, et resurrectionem meam.
あなたは私が座っているのも私が再び立ち上がるのも認識なさいました。
直訳:あなたは私の座りも私の再立ち上がりも認識なさいました。
別訳:(……) 知っていらっしゃいます。

  •  この入祭唱の文脈では,「座っている」ことは死を,「再び立ち上がる」ことは復活を暗示する。
     カッシオドルスは,死が「座っていること」という言葉で表されていることについて,イエスにおいては死は罰でなく (十字架の苦しみの後の) 休息を意味するものだったから,と説明している (参考:同書p. 373)。すると,これは聖金曜日 (受難日) というより聖土曜日を指す言葉だといえるだろう (聖土曜日,あるいは一般に土曜日は少なくとも正教会において「キリストが墓で休息した日」とも説明され,この意味でも土曜日を「安息日」ととらえる一つの根拠となっている。参考:高橋保行『知られていなかったキリスト教  正教の歴史と信仰』[教文館] あるいは『ギリシャ正教』[講談社学術文庫] のどこか。手元にないのでページ番号は示せない)。

  •  ここでも七十人訳は直説法・アオリストになっており,それに基づくならば「知っていらっしゃいます」より「認識なさいました」と訳すほうがよいだろう。
     

【逐語訳】

【アンティフォナ】

resurrexi 私が復活した,私が再び立ち上がった (動詞resurgo, resurgereの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)

  •  この動詞のもとの意味は「再び立ち上がる」だが,キリスト教の文脈では何といってもまず「復活する」の意味で用いられる。

et (英:and)

adhuc 今でも,いまだに

tecum あなたとともに (te:あなた [奪格],cum:~とともに)

sum 私がいる (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

alleluia ハレルヤ

posuisti あなたが置いた (動詞pono, ponereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

super ~の上に

me 私 (対格)

manum tuam あなたの手を (単数) (manum:手を,tuam:あなたの)

alleluia ハレルヤ

mirabilis 驚くべき,驚嘆すべき

facta est (~に) なった (動詞fio, fieriの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・3人称・女性・単数の形)

  •  主語は次の "scientia tua" で,それに合わせて女性・単数形をとっている。

scientia tua あなたの知識が;あなたについての知識が (scientia:知識が,tua:あなたの)

alleluia, alleluia ハレルヤ,ハレルヤ

【詩篇唱】

Domine 主よ

probasti あなたが試験した,あなたが調査した (動詞probo, probareの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

  •  "probavisti" が標準だが,グレゴリオ聖歌のテキストではこれまでのところこの形ばかり見ている。

me 私を

et (英:and)

cognovisti あなたが知るようになった,あなたが認識した;あなたが知っている (動詞cognosco, cognoscereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

me 私を

tu あなたが

cognovisti あなたが知るようになった,あなたが認識した;あなたが知っている (動詞cognosco, cognoscereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

sessionem meam 私が座っているのを (sessionem:座っていることを [名詞],meam:私の)

et (英:and)

resurrectionem meam 私が再び立ち上がるのを (resurrectionem:再び立ち上がることを [名詞],meam:私の)


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