入祭唱 "Oculi mei semper ad Dominum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ33)

【更新履歴】
2022年2月3日 (日本時間4日)

● 元テキストとの比較のところを少し書き改めたが,新情報はない。
●「アウグスティヌスによる詩篇講解」の部の最後に「補足」を書いた。本題とは関係ないことについての断り書き。
● その他細かい修正を行なった。

2020年3月9日
● "non erubescam" の解釈についていろいろ書いていたのを削除し,同箇所の訳文も変更した。

2019年3月21日
● 投稿


 GRADUALE TRIPLEX (GRADUALE ROMANUM 1974) p. 96; GRADUALE NOVUM I pp. 75-76.
 gregorien.infoの該当ページ
 

【教会の典礼における使用機会】

 昔も今も,四旬節第3主日に歌われる。ただし,現行の「通常形式」の典礼では,これか "Dum sanctificatus fuero" かを選択できることになっている。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Oculi mei semper ad Dominum, quia ipse evellet de laqueo pedes meos : respice in me, et miserere mei, quoniam unicus et pauper sum ego.
Ps. Ad te Domine levavi animam meam : Deus meus, in te confido, non erubescam.
【アンティフォナ】私の両眼は常に主のほうに[向けられている],なぜなら彼は私の両足を罠から引き離してくださるはずだから。私を顧みてください,そして私をあわれんでください,独りきりで貧しいのですから,私は。
【詩篇唱】あなたに向かって,主よ,私は私の魂を高く上げました。私の神よ,あなたを頼みにしています。私が赤面することはないでしょう。

 アンティフォナの出典は詩篇第24 (一般的な聖書では25) 篇第15–16節であり,詩篇唱に用いられているのも同じ詩篇である (ここに掲げられているのは第1節後半と第2節全部)。詩篇第24 (25) 篇というのは,1つ前の主日 (四旬節第2主日) に伝統的に歌われてきた入祭唱 "Reminiscere" のもとにもなっている詩篇である。
 アンティフォナも詩篇唱も,テキストはローマ詩篇書 (Psalterium Romanum) の対応箇所ともVulgata=ガリア詩篇書 (Psalterium Gallicanum) のそれともほぼ一致する。唯一の違いは,アンティフォナで "quia" と "quoniam" とが入れ替わっていることである (ローマ詩篇書でもVulgata=ガリア詩篇書でもまず "quoniam" が,次に "quia" が出ているのだが,このアンティフォナではそれが逆になっている)。この2つの語の意味・働きは似たようなものであるから,歌うにあたって (旋律がついてゆくにあたって) 音節数など言葉の響きの都合で入れ替えられた可能性がある ("quia" は2音節,"quoniam" は3音節。"quia" ではアクセント音節の後に1音節,"quoniam" では2音節)本当にそう考えてよいかどうかは旋律をよく見ないと分からず,どのようによく見ればそれが分かるかについての知識も今の私には不足しているため,この件にはこれ以上立ち入らない。単純に,もとの詩篇書自体においても実は両方のバージョンがある (書き写されるときに入れ替わってしまったものがある) ということももちろん考えられる。
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Oculi mei semper ad Dominum,
私の両眼は常に主のほうに[向けられている],
解説:
 動詞がない。なくても意味が十分はっきりしているからだろう。

quia ipse evellet de laqueo pedes meos :
なぜなら彼は,私の両足を罠から引き離してくださるはずだから。

respice in me,
私を顧みてください,
解説:
 文字通り「振り返って見る」という意味にとってもよいし,「考慮に入れる,気にかける」という意味にとってもよい。個人的には前者だと考えたい。上の "Oculi mei..." の部分を考え合わせれば,人間の眼差しに応える神の眼差し,ととらえるのがよいと思うからである。

et miserere mei,
そして私をあわれんでください,

quoniam unicus et pauper sum ego.
なぜなら独りきりで貧しいのですから,私は。
解説:
 ラテン語では出さなくてもよい1人称代名詞 "ego" をわざわざ最後に出して,「私が」ということを (かなり?) 強調している。Septuaginta Deutschの註によると,七十人訳のギリシャ語テキストではここに「強調された人称代名詞」があるらしい ("Im Griech[ischen] steht ein betontes Pers[onal]-Pron[omen].")。

【詩篇唱】

 前々回の "Reminiscere" で出てきたばかりのテキストである。

Ad te Domine levavi animam meam :
あなたに向かって,主よ,私は私の魂を高く上げました。

Deus meus, in te confido,
私の神よ,あなたを頼みにしています,

non erubescam.

私が赤面することはないでしょう。
別訳:私が赤面することになりませんように。
解説:
 ここにある動詞 "erubescam" は直説法・未来時制とも接続法・現在時制ともとることができるもので,前者ととれば「~ないでしょう」,後者ととれば「~なりません (ありません) ように」という意味になる。
 

【アウグスティヌスによる詩篇講解】

 逐語訳も含め,ほかの部分を全部書き終わってからこれを書いている。そのまま投稿してもよかったのだが,今回は楽だったので,せっかくだからアウグスティヌス『詩篇講解』のこの入祭唱に対応する部分を読んでみたいと思う。
 今回の入祭唱の出典である詩篇第24 (25) 篇の講解のはじめには,次のように述べられている。

Christus, sed in Ecclesiae persona, loquitur:
キリストがお語りになっているが,[そのままのお姿でではなく]教会の仮面をかぶってそうなさっている。

nam magis ad populum christianum conversum ad Deum pertinent quae dicuntur.
というのも,[この詩篇で]言われていることは,[彼自身に関係することではなく]むしろ神のほうに向き直った (=回心した) キリスト教徒の民に関係することなのである。

 アウグスティヌスをはじめとする教父たちは,詩篇をイエス・キリストに関連づけて読む。どのようにかというと,「キリストへの祈り」「キリストについての祈り」「キリストの教会についての祈り」「キリストによる祈り」「キリストの教会による祈り」のいずれかとして読むのである (参考:Klöckner, Handbuch Gregorianik, 2010年第2版,p. 180)。上に引用した言葉から,詩篇第24 (25) 篇がこの5類型の中では「キリストの教会による祈り」として読まれていることが分かる。
 次に,詩篇唱に対応する第1節後半と第2節についての部分である。今回アウグスティヌスは,詩篇の中で語っている者の立場に立って1人称で祈りを敷衍するというしかたで彼の解釈を示している。

Ad te, Domine, levavi animam meam:
「あなたに向かって,主よ,私は私の魂を高く上げました」(詩篇テキスト)

desiderio spiritali, quae carnalibus desideriis conculcabatur in terra.
霊的な欲求をもって (高く上げました),肉的な欲求によって地に踏みにじられていた(魂を)。

Deus meus, in te confido, non erubescam:
「私の神よ,あなたを頼みにしています。私が赤面することはないでしょう」(詩篇テキスト)

Deus meus, ex eo quod in me confidebam, perductus sum usque ad istam infirmitatem carnis;
私の神よ,自分自身を頼みにしたせいで,私はあのような肉の弱さにまで陥りました。

et qui deserto Deo sicut Deus esse volui,
そして,[まことの]神を捨てて自ら神たらんとした私は,

a minutissima bestiola mortem timens,
[そのくせ]最小の動物を見て[さえ]死を恐れる[者にすぎず],

de superbia mea irrisus erubui;
自らの高ぶりを嘲笑われて (※) 赤面したのでした。
※ あるいは「嘲笑に値する自らの高ぶりゆえに」。

 iam ergo in te confido, non erubescam.
ですから今は[自分自身ではなく]あなたを頼みにしているのです。[もう]私が赤面することはないでしょう。

自ら恃むことをやめ,神に頼る。パウロやルターや内村鑑三が熱く共感しそうな内容である。同じテキストによるアドヴェント第1週の入祭唱 "Ad te levavi" のアンティフォナ中 "Deus meus"「私の神よ」と呼びかける部分の,高く高く上を見上げる旋律について,また新たな思い入れを持たされる。

 内村、君は君のうちのみを見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みることを止めて十字架の上に君の罪を贖いたまひしイエスを仰ぎないのか。君の為す所は、小児が植木を鉢に植えてその成長を確定たしかめんと欲して毎日その根を抜いて見ると同然である。何故にこれを神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか。

内村鑑三が恩師シーリー先生から言われて「回心」(この場合,悔い改めというより「悟り」とでも言ったほうがよい何か) に至った言葉。内村鑑三「クリスマス夜話=私の信仰の先生」(1925)『内村鑑三全集』第29巻,p. 343。今回は岩野祐介「内村鑑三における良心と祈りの問題」(『アジア・キリスト教・多元性』第6号 [2008], pp. 57–72) p. 60に引用されているものを利用させていただいた (読み仮名を少し補った)。

 今回の入祭唱のアンティフォナの前半もまた,以後内村の信仰となったこの「仰瞻ぎょうせん」の信仰をよく表現しているともいえるのだが,そのことはアウグスティヌスの講解によっていっそうはっきりしたものになっている。該当の箇所を次に示す。

Oculi mei semper ad Dominum; quia ipse evellet de laqueo pedes meos:
「私の両眼は常に主のほうに[向けられている]。なぜなら彼は,私の両足を罠から引き離してくださるはずだから。」(詩篇テキスト)

nec timeam pericula terrena,
地上の諸々の危険を私が恐れることはない,

dum terram non intueor;
私が地に目を向けないでいる限り。

quoniam ille quem intueor, evellet de laqueo pedes meos.
なぜなら,私が目を向ける対象であるその方が,私の両足を罠から引き離してくださるはずなのだから。

「私の両眼は常に主のほうに[向けられている]」ということをアウグスティヌスが「地に目を向けないでいる」と敷衍しているおかげで,上に目を向けるか下に目を向けるかの選択の問題がここにあることが明瞭になっている。これは容易に,先ほどの「神を頼みとするか,自分自身を頼みとするか」の選択のこととして読むことができるし,ここで言われている「地上の諸々の危険」(詩篇の言葉では「罠」) というのも,もちろん迫害・戦争・天災などと考えてもよいのだが,まず先ほどの「肉的な欲求によって地に踏みにじられていた (魂)」「肉の弱さ」と結びつけて読みたくなる。そこから解放される道が,あくまで「主のほう」に目を向けること,仰瞻だというのである。
 
最後に,アンティフォナの残りの部分に対応する箇所を示す。

Respice in me, et miserere mei; quoniam unicus et pauper sum ego:
「私を顧みてください,そしてあわれんでください。たった独りで貧しいのですから,私は。」(詩篇テキスト)

quoniam unicus populus, unicae Ecclesiae tuae servans humilitatem, quam nulla schismata vel haereses tenent.
私は,いかなる分裂にも異端にもとらえられていないあなたのたった一つの教会の慎ましさを保つたった一つの民なのですから。

「私は (……) 民なのですから」とは奇妙に響く言葉かもしれないが,アウグスティヌスがこの詩篇を教会の声ととらえている (前述) ことを思えば理解できるところである。
 さて面白いのは,「たった独りで貧しい」という詩篇の否定的な言葉を,アウグスティヌスが肯定的な意味に読み替えていることである。「貧し」さは「慎ましさ」と言い換えられ,これは「分裂」や「異端」に陥ることを免れることと関連づけられている。「分裂」や「異端」は人間が各自の考え・偏った傾向に固執する (その意味で自分中心・高慢になる) ところから生まれるものだと考えれば,その逆が「慎ましさ」だというのは理解できる。そして,もとの詩篇では「孤独な」というニュアンスを与えられている形容詞 "unicus" は,アウグスティヌスにおいては教会の一致という望ましいことを表すものとして用いられている。
  「高慢さ/慎ましさ」という観点が示唆されていることをヒントに,上の「仰瞻の信仰」の話とは一見関係なさそうなこの箇所をも,前の部分に関係づけることができるかもしれない。上の箇所において「高慢さ (高ぶり)」という語は,頼みとするに値しない「自らを頼みとすること」(それによって,結局は自ら神たらんとすること) の言い換えとして出てきた。そして,そのような「高慢さ」の結果「肉の弱さ」に陥ったとも述べられていた。これだけ読むと,自分の弱さに悩む個々の人間が問題になっているようだが (そして実際それもあるのだろうが),この「私は,いかなる分裂にも異端にもとらえられていないあなたのたった一つの教会の慎ましさを保つたった一つの民なのですから」という箇所に至ると,同じ話が教会全体についても言われていると感じられる。「高慢さ」,すなわち「自らを頼みとすること」,すなわち自分の考え・自分の偏りに固執することが,教会の一致を損なう「分裂」や「異端」を生む。それを防ぐことができるのは,ただ主を見上げる「慎ましさ」だけである,と。
補足 (2022年2月3日):テキストを読んで純粋に考えを進めて (現実世界でどうかということは考えずに) 以上のようなことを書いてしまったが,実際の教会分裂 (東西教会の分裂,カトリックとプロテスタントとの分裂など) については必ずしもこのように言って批判すべきものではなく,いろいろな事情 (さらに言えば,いろいろな良心) の結果こうなった部分もあると言うのがよいのだろうと思う。
 

【逐語訳】

【アンティフォナ】

Oculi mei 私の両目が (oculi:目 [複数] が,mei:私の)

semper 常に

ad Dominum 主のほうに,主のほうへ (Dominum:主 [対格])

quia なぜなら~から

ipse 彼が
● 本来は「~自身」(英:myself, yourselfなど) という意味の語だが,古代末期以降のラテン語ではこのように単に「彼」の意味でも現れる。

evellet 引き離すだろう,引きはがすだろう (動詞evello, evellereの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)

de laqueo 罠から (laqueo:罠 [奪格])
● どういう罠かだが,辞書を見る限り,ひも状のものでも落とし穴でもありうる。

pedes meos 私の両足を (pedes:足 [複数] を,meos:私の)

respice 顧みてください,振り返って視線を向けてください,考慮してください (動詞respicio, respicereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

in me 私 (のほう) を (me:私 [対格])
● "me" は奪格でもありうる形だが,動詞respicio, respicere (>respice) の意味からしてこの "in" は方向を示していると考えられ,するとそれに続くものは対格であると考えられる。

et (英:and)

miserere あわれんでください (動詞misereor, misereriの命令法・受動態の顔をした能動態・現在時制・2人称・単数の形)

mei 私を (属格)
● 動詞misereor, misereri (>miserere) が属格目的語をとることになっているため,属格になっている。

quoniam というのも~から

unicus ひとりの,唯一の,孤独な

et (英:and)

pauper 貧しい,助けを必要とする

sum 私が~である (英:I am) (動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

ego 私が

【詩篇唱】

Ad te あなたに向かって (te:あなた [対格])

Domine 主よ

levavi 私が上げた,私が起こした,私が軽くした (動詞levo, levareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)

animam meam 私の魂を (animam:魂を,meam:私の)

Deus meus 私の神よ (Deus:神よ,meus:私の)

in te あなたを
● 次の動詞 "confido" を補い,「誰を」頼みにするのかを示す。

confido 私が頼みにする,私が信頼する (動詞confido, confidereの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

non erubescam 私が赤面することはないだろう / 私が赤面しませんように (nonは否定詞。erubescam:動詞erubesco, erubescereの接続法・能動態・現在時制・1人称・単数の形,または直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
● 接続法・現在時制ならば「赤面しませんように」(祈願),直説法・未来時制ならば「赤面することはないだろう」。

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