私のキリスト教観 (2012年4月29日時点)

 もともとは随想録ノート (手元にある紙のノート) に2012年4月29日に書いたもの。それにごくわずかな修正・補足を加え,同年5月13日に注を加えてFacebookの「ノート」機能を用いて公開した。これはその転載である。
 


 現在の私のキリスト教観。休み中にヨーハン・アルント [注1] の「真のキリスト教について」第2巻第6章 (創文社・ドイツ神秘主義叢書12『キリスト教についての対話』[山内貞男訳] 1997, p. 235ff.) を読んで以来のもの。

  「キリスト教とは,人がイエス・キリスト (の一部) になることであってそれ以外ではなく,救い,悔い改め,洗礼,善行,聖化といったことはすべて,このことを基本として考えるべき派生的な問題にすぎない。」[注2]

 正教 (東方教会) の本を数年前に読んでいたときに出会った「神が人になったのは,人が神になるためである」という言葉はキリスト教のすべてを言い表していると,今は思う。ただし「人が神になる」という言い方は誤解を招きやすいと思われるので,ほかの人々に伝えるときには慎重にする必要があるが。

 本来神性と一つであった人性が罪によって神性から離れ,十分には祝され得ないものとなった (「全くもって呪われるべきものとなった」とまで言うのが正しいかどうかは私は判断しかねるし [素直に感じるままを述べるとしたら,正しくないと思う],これは最も本質的な問題ではないので今はおいておく) が,神人イエス・キリストが来て,この神と人との離隔を自らの人性に引き受け,受難においてこれを自らの人性において清算し,あるいは自らの体ごとこれを滅ぼし――「死を以て死を滅ぼし」[注3] ――,復活において再び神性と一つの人性を実現し,再び人性を祝されるものとした (それゆえ,キリスト教のイメージとは裏腹に,この復活のキリストにおいて,我々は「人間万歳」[注4] を叫ぶことも可能なのである。もとより人間に功績はあくまでも一切ないが)。

 この祝された人性に与ること,自らの人性をこの祝された人性と次第に入れ替えてゆくこと,これこそキリスト教のすべてであると,私は考える。ただ,その具体的な手段については,今は論じない [注5]。

≪人間は,ちょうど神からの離反によって,すなわち自分自身の愛と自分自身の名誉によって,神から引き離され,生来与えられていた完全性を失ってしまったように,神との合一によって再びその完全な安息と至福に至らなければならない。というのも,人間の完全性は神との合一にあるからである。それ故,人間の本性が再び神と合一され,かくしてその完全性を回復させられるようにと,神の子は人間になられなければならなかった。なぜなら,神の本性と人間の本性がキリストにおいて和解して合一しているように,われわれの罪ある本性の深い堕落が改められんがため,われわれは皆信仰を通して恵みにより [注6] キリストと,すなわち最高の永遠なる善と合一させられなければならないからである。≫ (前掲書,p. 235)

注1 ヨーハン・アルント (Johann Arndt, 1555–1621) は,近世ドイツ・ルター派の神学者。17世紀のルター派の信仰に非常に大きな影響を与え (たとえば,17世紀の有名なルター派聖歌 [コラール] の作者たちについて調べると,頻繁にアルントの名を見ることになる),とりわけこの世紀の後半に起こった敬虔主義 (Pietismus) の源となった。その思想・神学の内容など詳しいことについては私は解説できるほどよく知らないので,ここには記さないでおく。なお,J. S. バッハの蔵書にもアルントの著書が含まれていたし,彼の教会音楽において用いられている聖歌の中にはアルントの影響下にある17世紀のものもかなり多いので,音楽史的にも重要人物である。

注2  「」で括ったので引用のように見えてしまうが,引用ではなく,これが現在の私のキリスト教観である。

注3 正教会の復活のトロパリ (讃詞) より。

注4 ここではわりとどうでもよいことだが,高校2年のとき私は武者小路実篤に傾倒しており,彼の作品の中で特に気に入ったものの一つが『人間万歳』だった。
 なお,実篤,ロマン・ロラン,ゲーテなど,ノン・クリスチャン (と言い切ってよいかどうかについては,後2者については議論もあるかもしれないが) であるが,私が好きで価値があると思うさまざまな著作を残してくれた人々を,信仰上否定するのでなく積極的に肯定することのできる神学を持つことは,私にとって大きな喜びである。しかし,一つ前のノート (日本時間でもドイツ時間でも2012年5月13日付) に示されているように,私の心・感覚はまだ彼らと私の信仰とを隔てられたものとしており,これは私の悩みである。

注5 これについて,とりわけ,はっきりした形でキリスト教の信仰に入ることが絶対に必要なのかどうか (そして,それが必要なのだとしたら,どうすれば本当に信仰に入ったといえるのか) という問題は非常に難しい問題であり,そう気軽に論ずるわけにはゆかない。しかし,とりあえず私の立場を述べておく。
 まず,とにかく「恩寵 (gratia) は自然 (natura) を破壊せず,むしろこれを完成する」ので,現在キリスト教と関係があるとされていようがいまいが,正しいものはあくまでも正しく,善いものはあくまでも善く,美しいものはあくまでも美しく,これらにはあくまでも本当に価値があり,これらを希求する人間の営みにもあくまでも本当に価値があると考える (恩寵と自然のうち「自然」の部分を,人間の努力によって整える,ということ)。そして,世界においてそういうものを実現する営みのみならず,自分自身においてそういうものを実現する営みも,きっと本当に価値があるのだろうと考える (そうでなければ説明のつかない事例が少なからずある)。なおこのように,いわば「キリスト教世界の外」におけるよいものの価値を大いに認めている点においても,第2ヴァティカン公会議の決定 (「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」,「現代世界憲章」など) には私は大いに賛同せずにいられない。
 それから現実的な問題として,かりに文字通りのキリスト教信仰が絶対に必要なのだとしても,実際に現在ある教会の姿・キリスト者の姿は必ずしも理想的なものではなく,むしろ近年は問題もかなり多いといえるだろう。それを見てキリスト教に対し不信感を抱くのはもっともなことだと言わざるをえない。音楽が粗悪だとか教会員の感じが悪いとかならまだいいほうで,教え・重点の置きどころからして間違っている教会さえあるのだから。そして,教会につまづく場合に限らず,とにかく,誰もが信仰とのよい出会いが得られるとは限らないのである。しかも,教会の外で生きている素晴らしい人々がたくさんいるのである。
 この点においても,教会外,見える形でのキリスト教信仰の外における救いもありうるということを明言した第2ヴァティカン公会議の決定 (「教会憲章」16) に私は賛同する。
 ただし,最終的には,すべてはあくまでも神の恩寵によって初めて完成すると考える。その「最終的には」というのがどの時点かだが,ごく短いスパン (人の一生,一つの事業の遂行など) でそれがいえることもあるだろうし,終末において初めてそれがいえることもあるかもしれない,と思う。そして,神の恩寵が必要であることをひとたび自覚したならば,ほかの人はさておき,その人はもうそのことを無視してはならないと思う。また,教会とともによく生きることができるならば教会とともに生き,そして,次の注6の条件を守った上で,教会を強くすべくできることがあればしてほしいと思う。

注6  「信仰を通して恵みにより」というところはいかにもルター派らしいが,これは「ルター派らしい」とか「プロテスタントらしい」と言って片付けてはならない,たいへん重要なところだと思う。これなしにむやみに「善行」に走ると,「新しい人」(すなわち自分の中に生きるイエス・キリスト) によらず「古い人」(すなわち,本来そんな「善行」を行うはずもない,もともとの自分) によって業を行うので,嘘・偽善・仮面が重なり,誠実さ・真心が忘れられ,結局は神の国をもたらすこともできないし,当然自分自身も本当には成長できないだろうと,思う。なおこの点から私が批判したいひとつの例として,典礼や信仰箇条をないがしろにしているくせに社会問題に関わることにはやけに熱心な,少なくとも日本の一部に存在するらしい教会を挙げておく。
 なお,こう述べると,注5で書いたことにいくらか矛盾するのではないかと思われるだろう。私もそう思う。だからとりあえず,この注6の内容を適用する対象は,既にキリスト教によって生きている人,あるいはそれがよいと思っている人にひとまず限定しておく。しかしそうでない人にも,新渡戸稲造が第一高等学校校長時代に学生たちに常々説いていたという「to doよりto beが大切」という教えはよい教えだと思うので,紹介しておきたい。

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