入祭唱 "Dum clamarem ad Dominum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ61)

GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 303–304; GRADUALE NOVUM I pp. 283–284.
gregorien.infoの該当ページ
 

【教会の典礼における使用機会】

 
 第2バチカン公会議後の典礼改革当初の規定 (1970年。GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXおよびGRADUALE NOVUMはこれに従っている) では,灰の水曜日の翌日 (木曜日) と年間第15週とに割り当てられている (これら典礼暦関連の用語についてはこちら)年間第15週には "Ego autem cum iustitia" を用いることもできる。
 最新版 (2002年版) ミサ典書では灰の水曜日の翌日 (木曜日) のみに割り当てられており,年間第15週のところには "Ego autem cum iustitia" だけが載っている。

 1962年版ミサ典書 (現在,伝統的なミサ,すなわち先の典礼改革が行われる前の形でミサを挙行する際に用いられる典礼書) では,灰の水曜日の翌日 (木曜日) と「聖霊降臨後第10主日」とに割り当てられている。AMSを見ると,遅くとも9世紀にはもうこうなっていたようである。
 

 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

 
Dum clamarem ad Dominum, exaudivit vocem meam, ab his qui appropinquant mihi : et humiliavit eos, qui est ante saecula, et manet in aeternum : iacta cogitatum tuum in Domino, et ipse te enutriet.
Ps. Exaudi Deus orationem meam, et ne despexeris deprecationem meam : intende mihi, et exaudi me.
【アンティフォナ】私が主に向かって叫んだとき,彼は私に近づいてくる者どものところから発せられる私の声をしっかりと聴いてくださった。そして,永遠の昔から在りとこしえに留まっていらっしゃる方は,彼らを低くなさった。あなたの気がかりを主に投げよ,そうしたら彼御自らあなたを養ってくださるだろう。
【詩篇唱】神よ,私の祈りをお聞き届けください。私の願いを軽んじないでください。私に御注意をお向けになり,私 (の言葉) をしっかりとお聴きください。

 
 アンティフォナは詩篇第54 (一般的な聖書では55) 篇第17–23a節をもとにしているが (実はほかの箇所ももとになっている可能性があると思う。後述),多くの変更が行われている。

 全体として,もとの詩篇で「私に近づいてくる者ども」(「私」の敵たち) がどのような者たちであるかが述べられている部分はこの入祭唱では省略されており,神が「私」の叫びを聴いてくださり彼らを退けてくださったという経験自体 (それからその経験をもとにした奨励) に焦点を当てた取捨選択が行われていることが分かる。
  
「経験」と書いたが,もとの詩篇で未来時制であるものがこの入祭唱では完了時制に変更されているところが複数あり ("exaudiet" → "exaudivit","humiliabit" → "humiliavit"),これによって,本来「期待」を述べている部分までも「既に経験したこと」として語られているのである。これにより,最後の奨励「あなたの気がかりを主に投げよ,そうしたら彼御自らあなたを養ってくださるだろう」の根拠は「期待」ではなく「実際の経験」となり,強い説得力を伴うものになっているといえるだろう。

 入祭唱に採用された部分のテキストを2つの詩篇書 (上の表の右2列) と見比べると,Vulgata=ガリア詩篇書よりはローマ詩篇書をもとにしているのだろうと思われる (これらの詩篇書についての解説はこちら)。
 ただ,最終段で入祭唱が "in Domino" としているのはローマ詩篇書で "in Deum",Vulgata=ガリア詩篇書で "super Dominum" となっていていずれとも一致しないわけだが,ではこの箇所は入祭唱が成立する過程で意図的にこう変えられたのかというと,必ずしもそうではなさそうで,サン=ジェルマンの詩篇書 (Psautier de Saint-Germain,6世紀ごろ) などにもこの形が見られる。どれが先に成立したかなど詳しいことは私は知らないので,これ以上は深入りしない。

"[i]acta in d[o]m[in]o cogitatum tuum et ipse te nutriet". Psautier de Saint-Germain (BnF [Bibliothèque nationale de France = フランス国立図書館], Latin 11947), f. 105r, 第2–3行

 
 なお冒頭,もとの詩篇で "ego autem ad Dominum/Deum clamavi (しかし私は主に/神に向かって叫んだ)" と独立した文で述べられていることが,入祭唱では "Dum clamarem ad Dominum (私が主に向かって叫んだとき)" と従属節 (英語でいうwhen/while節) に変更されているが,これはもしかすると改変というよりは,そもそも別の詩篇から言葉を持ってきているのかもしれない

Dominus exaudivit me dum clamarem ad eum
主は私(の言葉/願い)をしっかりと聴いてくださった/聞き届けてくださった,私が彼に向かって叫んだとき。

詩篇第4篇第4節 (ローマ詩篇書)

dum clamarem ad eum exaudivit me
私が彼 [=主] に向かって叫んだとき,彼は私(の言葉/願い)をしっかりと聴いてくださった/聞き届けてくださった。

詩篇第21 (22) 篇第25節 (ローマ詩篇書)

exaudisti vocem deprecationis meae
dum clamarem ad te

あなた (=主) は私の願いの声をしっかりと聴いてくださった/聞き届けてくださった,
私があなたに向かって叫んだとき。

詩篇第30 (31) 篇第23節 (ローマ詩篇書)

 このように,"dum clamarem ad ..." という形はむしろほかの詩篇に見られ,しかも上に掲げた3つの例すべてにおいて「主」が「私」の言葉をしっかりと聴いてくださったということが言われており,これも入祭唱の内容に合う (動詞が "exaudivit" と完了時制の形をとっている点でも,入祭唱との一致度が詩篇第54 [55] 篇より高いといえる)。
 思うに,入祭唱を含む典礼文の成立/制定過程に関わっていた人々というのは詩篇全体を自らの血肉としていた人々であろうから,この詩篇第54 (55) 篇からとった入祭唱を作る中でも,特に作為なくごく自然に,内容は共通だが言い方の異なるほかの詩篇の一部を混ぜてしまった (混ぜることができてしまった),というところではないだろうか。

 ここでこの話は終えてもよいのだが,敢えて続ける (特に意味のなさそうなところに意味を見出す/こじつける) と,私は上掲3つの中では特に,もし詩篇第21 (22) 篇から言葉が取ってこられたのだとしたらと考えるときに深い意味を感じる。この第21 (22) 篇はイエス・キリストの受難と特に強く関連づけられる詩篇であり,それも,人間の尊厳を失うまでに低くされた者の姿が描かれていることを特徴とする。

だが私は虫けら。人とは言えない。
人のそしりの的,民の蔑みの的。

詩篇第21 (22) 篇第7節 (聖書協会共同訳)

 さて,この入祭唱が旧典礼で割り当てられている日の一つである「聖霊降臨後第10主日」には,福音書としてルカ18:9–14が読まれる。これは,敬虔な生活をしているが自分の正しさを誇る者と,罪深い (と当時の社会でされていた) 徴税人がうつむき胸を打ってただ「神よ,罪びとの私をあわれんでください」と言ったのとが比較され,神によしとされたのは後者である,とイエスが教えている箇所である。「誰でも,高ぶる者は低くされ,へりくだる者は高められる」と彼はこの話を結んでいるが,へりくだる (自分を低くする) といえばその究極は神が人となりしかも人間以下の扱いを受けたということであり,そのありさまは先述の通り詩篇第21 (22) 篇に特によく描かれている。
 そういうわけで,詩篇第21 (22) 篇からの引用をさりげなく混ぜることにより,自分を低くする者を神はよしとしてくださる,そういう者の叫びをよく聴いてくださるという福音書のメッセージが,単に詩篇第54 (55) 篇をそのまま用いるよりも強く出ているのではないかと思うのだが,さすがに考えすぎだろうか。
 

 詩篇唱に採られているのはアンティフォナ (の少なくとも大部分) と同じく詩篇第54 (55) 篇であり,上に掲げたのはGRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXに従い第2–3a節であるが,GRADUALE NOVUMには第2節しか載っていない。これはEinsiedeln 121にそこまでしか載っていない (正確にいうとテキストは "et ne desp." までしか記されておらず,ネウマのみが第2節の終わりまで歌うことを示唆している) ことによる。
 
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Dum clamarem ad Dominum,
私が主に向かって叫んだとき,
別訳:私が主に向かって叫んでいた間,

  •  別訳のほうが接続詞 "dum" の本来の意味 (英:while) をよく反映しており,単に「~とき」(英:when) というなら "cum" というべきところだが,中世ラテン語では "dum" がごく普通にこの "cum" に代わっても用いられる (参考:國原,p. 105;  STOWASSER,p. XXII)。
     今回は,主節 (すぐ下で訳す) の動詞 "exaudivit" が未完了時制でなく完了時制の形をとっている (要するに,英語でいうと過去進行形でなく過去形をとっている) ので,"when" の意味にとるほうがよいだろう。

exaudivit vocem meam,
彼は私の声をしっかりと聴いた,

  •   「彼」=「主」。

ab his qui appropinquant mihi :
私に近づいてくる (近づいてきていた) 者ども (のところ) からの。(形容詞句)
別訳:(……) 者どもゆえの。(形容詞句)
別訳:(……) 者ども (のところ) から。(副詞句)
以上それぞれの別訳:私の近くにいる (いた) (……)

  •  形の上では副詞句 ("exaudivit"「彼はしっかりと聴いてくださった」にかかる) とも形容詞句 ("vocem"「声を」にかかる) ともとることができ,"vocem meam" の後にコンマが打たれているのを見ると副詞句ととりたくなる。しかしこれに限らずグレゴリオ聖歌のテキストの句読点は後でつけられたものなので,時には敢えて無視して考えるのが有効なこともあり,これもその一例であろう。
      「主」が「私に近づいてくる者どものところから」「しっかりと聴いてくださった」というのであれば,「主」は「私に近づいてくる者ども」(「私」の敵たち) と一緒にいるということになり,これは奇妙である。それに対し,「私に近づいてくる者どものところから(or:ゆえ)」「私の声を」しっかり聴いてくださったというのであれば,「私に近づいてくる者ども」のところ (あるいはその近く) にいるのは「主」ではなく「私」だということになるから問題ない。

  •  "appropinquant" は現在時制の形をしているが,このアンティフォナのテキストは最後の奨励の部分を除き一貫して過去のことを述べているので,これは「歴史的現在」だと考える (つまり意味は過去)。

et humiliavit eos,
そして (彼は) 彼らを低くした,

  •  主語は動詞 "humiliavit" に含まれている (「彼」) ともいえるし,そうではなくこれに続く "qui" 以下が主語だともいえる (ラテン語の関係代名詞 [ここでは "qui"] は先行詞をも含むことがあるので)。

qui est ante saecula, et manet in aeternum :
永遠の昔から在し,とこしえに留まる方は。
別訳:
永遠の昔から在し,とこしえに留まる (彼は)。

iacta cogitatum tuum in Domino,
あなたの気がかり (考え) を主に投げよ,
別訳:あなたの気がかり (考え) を主において (主の中で) 言葉にせよ,

  •  "in Domino" は文字通りには「主において」であって,「主に (主のほうへ)」ではない。"Domino" は奪格だが,「主に (主のほうへ)」というとき,つまり「位置」ではなく「方向」を示すときには対格 ("Dominum") を用いるのである。

  •  この原則に従ってここを解釈すると別訳のようになる。この文脈では「主において (主の中で)」という言葉の意味が分かりづらいかもしれないが,私がイメージしているのは,気がかりを心に抱えている者を包み込み,安心して言葉にできるようにしてくれる場としての「主」という存在である。

  •  しかし実際にはこの原則から外れて「in + 奪格」でも「方向」を表していることも時々ある。それはどういうときかというと,ともに用いられている動詞の意味からして「方向」の意味であることが明らかな場合や,ものがその方向に向かって移動したあと目的の場所で長く留まる (ので静的な性格が強まる) 場合である。
     今回は「投げる」という意味の動詞iacto, iactare (>iacta) が前者の条件を満たすと思われ,また後者の条件についても,投げかけられた「気がかり」を「主」がしっかりと受け止めて十分な時間それを手に持っていてくれる (そのことを考えてくれる) のだ,などと考えるならばやはり該当するといえるかと思う。

  •  というわけで,「in + 奪格」という形ではあるが,今回は「方向」を示しているとまずは考えることにする。
     
    なお先述の通り,ローマ詩篇書やVulgata=ガリア詩篇書ではここは "in Deum" あるいは "super Dominum" であり,それぞれ対格が用いられている (前置詞 "super" も "in" 同様,原則として,後続の名詞が対格ならば「方向」,奪格ならば「位置」を表す性質を持つ。やはり例外もあるが)。

et ipse te enutriet.
そうしたら彼自らあなたを養ってくれるだろう。
別訳:そうしたら彼はあなたを養ってくれるだろう。

  •  "ipse" は本来英語でいう "himself" だが,古代末期以降のラテン語では単なる「彼が (id)」の代わりにも用いられ,そう解釈すると別訳のようになる。
     

【詩篇唱】

Exaudi Deus orationem meam,
神よ,私の祈りを聞き届けてください,
別訳:神よ,私の祈りをしっかりと聴いてください,

et ne despexeris deprecationem meam :
そして私の願いを軽んじないでください。

intende mihi,
私に注意を向けてください,

et exaudi me.
そして私 (の言葉) をしっかりと聴いてください。
別訳:そして私 (の願い) を聞き届けてください。
 
 

【逐語訳】

【アンティフォナ】

dum ~の間 (英:while),~のとき (英:when) (接続詞)

clamarem 私が叫ぶ (叫んでいる) / 叫んだ (叫んでいた) (動詞clamo, clamareの接続法・能動態・未完了時制・1人称・単数の形)

ad (英:to)

Dominum 主 (対格)

exaudivit 彼がしっかりと聴いた,彼が聞き届けた (動詞exaudio, exaudireの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

vocem 声を

meam 私の

  •  直前の "vocem" にかかる。

ab ~から (の),~ゆえ (の)

his (英:関係代名詞の直前に置かれる漠然とした先行詞としてのthose) (男性・複数・奪格)

  •  本来は「これら」という意味の指示代名詞。

qui (関係代名詞,男性・複数・主格)

appropinquant 近づいてくる (きた),近くにいる (いた) (動詞appropinquo, appropinquareの直説法・能動態・現在時制)

  •  対訳の部で述べた通り,これは「歴史的現在」であると考えられる。

mihi 私に

et (英:and)

humiliavit 彼が低くした,彼が (高慢を) くじいた (動詞humilio, humiliareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

eos 彼らを

qui (関係代名詞,男性・単数・主格)

  •  先行詞は2つ前の動詞 "humiliavit" に隠れている「彼」であるともいえるし,このqui自体に含まれている (英:he who) ともいえる。

est ある,いる (英語でいうbe動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)

ante ~の前

saecula 世代,時代,長い期間,永遠 (複数・対格)

et (英:and)

manet 留まる,在り続ける (動詞maneo, manereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)

in aeternum 永遠に

iacta 投げよ,発言せよ,言葉にせよ (動詞iacto, iactareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

cogitatum 考えを,気がかりを,心配を,不安を (第4変化名詞cogitatusの単数・対格の形)

  •  これは形容詞cogitatus/-a/-umの中性・単数・対格の形を名詞化して用いたもののようにも見え,そもそも第4変化名詞cogitatusは載せていない辞書が多い ("cogitatum" という第2変化中性名詞の項目なら上記の形容詞と並べて立てられていることもある)。しかし,少なくとも私の手元にある辞書だと,この形容詞cogitatus/-a/-tumあるいは中性名詞cogitatumのところには,「気がかりな (こと)」「心配な (こと)」といった,今回の文脈で最も欲しい意味が載っていない。
     それに対して,第4変化名詞cogitatusであれば,"souci (気がかり,心配,不安)","inquiétude (心配,不安,懸念)" という意味がBlaiseのキリスト教ラテン語辞典に載っているので,こちらと解釈するのがよいだろう。

tuum あなたの,おまえの

  •  直前の "cogitatum" にかかる。

in ~へ,~に向かって

  •  前置詞 "in" で「~へ,~に向かって」(方向) という意味を表すときは原則として対格が続くのだが,今回は奪格が続いている。それにもかかわらずこう解釈する理由は対訳の部で詳しく述べたので,そちらをお読みいただきたい。

Domino 主 (奪格)

et (英:and)

ipse 彼自身 (英:himself),彼が (英:he)

  •  対訳の部でも述べたが,本来は「彼が自分自身で」というときの「自分自身で」の部分にあたる語である。しかし古代末期以降は単なる人称代名詞としても用いられるようになった。今回はどちらともとれる。

te あなたを,おまえを

enutriet (彼が) 養うだろう,育てるだろう,面倒を見るだろう (動詞enutrio, enutrireの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
 

【詩篇唱】

exaudi しっかりと聴いてください,聞き届けてください (動詞exaudio, exaudireの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

Deus 神よ

orationem 祈りを

meam 私の

  •  直前の "orationem" にかかる。

et (英:and)

ne despexeris 見下ろさないでください,見下さないでください,軽蔑しないでください,目をそらさないでください (neは否定詞。despexeris:動詞despicio, despicereの接続法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

  •  主節での接続法・完了時制・2人称は「命令」(今回のように否定詞がつけば「禁止」) を表す。完了時制だが,過去の意味はない。

deprecationem (現状を変えたり,起こりそうな災いを防いだりしようとする) 願いを

meam 私の

  •  直前の "deprecationem" にかかる。

intende 注意を向けてください (動詞intendo, intendereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

mihi 私に

et (英:and)

exaudi しっかりと聴いてください,聞き届けてください (動詞exaudio, exaudireの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

me 私 (の言葉/願い) を
 

【余談】

 この入祭唱アンティフォナの終わりの部分と同じ聖書箇所をもとにした有名な曲に,メンデルスゾーンのオラトリオ《エリヤ》中の1楽章 "Wirf dein Anliegen auf den Herrn" がある。

Wirf dein Anliegen auf den HERRN,
あなたの問題 (重荷) を主に投げよ,

der wird dich versorgen,
彼はあなたの世話をしてくださるだろう。

und wird den Gerechten nicht ewiglich in Unruhe lassen.
そして義人を永遠に不安のうちに捨て置いたままにはなさらないだろう。(ここまで詩篇55[54]:23)

Denn seine Gnade reicht so weit der Himmel ist,
というのも,彼の恵みは天がそうであるほどにあまねく広がっており,(cf. 詩篇36[35]:6a, 57[56]:11a, 108[107]:5a)

und keiner wird zu Schanden, der seiner harret.
彼を待ち望む者は誰ひとり恥を見ることがないのだから。(詩篇25[24]:3a)


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