Ep.9 好きの重量
言葉や行動がそこにはなくても、その人の中には確かに根付いている愛が、あるのだなぁと思う。
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かれこれ一年半ほど前から、鬼滅の刃にハマりつつありました。というか、完全に片足突っ込んでいるのに「無い」と言い張っていました。だって、好きが増えるのが苦手なんです。どうしても増やしたくないんです。でも好きって自制とは別の場所にポコッと芽生えるもので、水をあげないようにいくら気を付けていても、鬼滅はダメでした。
我妻善逸くんが好きです。
私が頑なに快斗くん以外を推しと言わない理由は、ずばり自分の中の変化を受け入れるのが苦手だから、です。
今まで、私は、快斗くん以外を好きになるのが怖かったんです。快斗くんへの自分の愛を疑っているわけではありませんが、推しが増えることで変わってしまうことがあると思います。善(我妻善逸くんのことです。)の事を考えたり調べたりしている時間は、快斗くんに割くことができない時間になってしまう。善のグッズを買うことで、快斗くんのグッズを買う分のお金が減ってしまう。
愛をお金や時間で測っているわけではないけど、一つが変わるだけで何もかも変わってしまうような不安がありました。好きなのに好きだと言ったら何かが変わってしまうような気がして怖い。何かを受け入れたら大切な何かを忘れてしまうような気がして恐い。年齢を重ねる度に、新しいものを好きになることに対して理由が無くちゃいけない!なんて思ってしまっています。昔の私は、好きになるのに理由なんかいらなくない?って少女漫画みたいなこと思ってたはず、きっとそうだったはずなのに、いつから理由が必要になったんでしょう。
昔の私はどうやって新しいものを好きになっていたんだろ?
好きになるのに、好きなのに、好きだと言えない時間がこんなに長いことって今まであった?
帰って来られなくなってしまったらどうしよう、そう思い続けて来ました。
自分が何かを好きになるのが下手くそだという自覚があったから、今まで鬼滅にはひたすらに目を瞑ってきました。好きにはなるまい、好きになったら、変化するということだ。私は、変化したくない、変化を受け入れたくない。そう思って居たのに、世間が異常な盛り上がりを見せ、鬼滅を意識せざるを得なくなってしまいました。
いくらシャッターをしめても、周りの人間から鬼滅の話題が入ってくるんです。
私がアニメとか漫画好きって知ってるから、鬼滅知ってるだろう、好きだろうって前提で話しかけてくる人が多いんです。嬉しいですよ?何かをみて、この子なら知ってるだろうって思ってくれることは。それに、知ってるよね?って前提で話しかけられると、そりゃまぁあなたたちよりかは知ってますよって思います。鬼滅好きなオタク友達が居ますし。でもね、好きになりたいとは言ってないんです。知ってしまえば好きになってしまうって分かっているから、知りたくないんです。
つまり自分でしか認めてあげられない自分の中の「好き」を、唯一の理解者である私自身が否定してしまっているんです。
そんな我妻善逸くんを好きと認めざるを得なくなった切っ掛けは完全なる衝動でした。
ローソンで一番くじやってるんですけど、売ってるところをはじめて見かけたんです。その時善のフィギュアが残ってて、私が咄嗟に下した判断が「残りのくじを全部購入する」でした。0.01秒以下で、私は善のフィギュアを手に入れるために残しのくじ13枚、計八千円を払うと決めました。
(その上、安くないか?大丈夫か?も、もうちょっと出せるよ私、とか思う。)
そりゃもう誰が見ても善のことが好きだろって思うでしょう。私もその時に、やっと、自覚したんです、快斗くんを好きになった時と同じだ、って。根底にある「好き」が私の意思を超えて身体を突き動かす瞬間の既視感。
でも好きになったとて、好きを認めたとて辛いんですよ。
だって、私がいくら日本語を学んでも、恋愛小説や泣ける映画を見ても「好き」という感情が「好き」という言葉以外で表現出来ない。どんな言葉を知ったとしても、推しである彼らに対して「好き」以上にしっくりくる言葉を見つけることが出来ない。
純朴な感情だけで好きでいることが難しいくせに、その感情を言い表すことすら出来ない。その不甲斐なさと、みっともない感じ。好きになるのに時間がかかるくせに、好きになってもみっともない愛した方しか出来ない馬鹿な私!
それは、みっともなくて万々歳!って思える時もあれば、お淑やかに憧れたりして、それでも私のことを好きだと言ってくださる方がいて、ないものねだりってそうしてできていくのだと痛感しています。
私は、自分の「好き」という感情が、全て自分の承認欲求からなる物だったとしたら、それが全てエゴだったとしたら、私は自分のことをなんて傲慢なやつなんだって思うんです。だから自分の「好き」が、愛情やそれ以上の何かから成るものだと信じていたいし、そうであると思っています。紐解ける愛情の方が、誰かに理解してもらうには楽チンで良いと思ってしまうし、難解な愛情こそ至高だとも感じるし、「好き」を前にすると頭がごっちゃになってしまう。言語化しないと整理整頓できないのだと気付かされて、それでも涙が出るほど愛しているよと伝え続けていたい。そう願って、毎日推しを愛でています。(重いな)
よく「推しが尊い」って言うけれど、確かに、命が尊いと思うのと同じように推しを尊いと思うけれど、私の推したちはそんなに儚い人達では無いし、誰よりも強い人達なんです、彼らは。
でも、尊いって言葉は、彼らの命の儚さとか顔の端麗さとか、瞳の美しさに由来しているのかなと思っている日もあります。朧気と言うよりかは、幾分しっかりとした瞳の奥に、宝石のような美しさと消えてしまいそうな煌めきを湛えて、彼らは今日も私の推しで居てくれます。
誰よりも強いくせに、脆い部分があって、それを内々に隠して表面では笑っている。心は孤独なのに、周りにはたくさん人がいて、いつも誰かを守りたいと思っている。
そんな子達が私の推しです。
考えてみれば推しが二人って初めてで、それに気がついた日から私は毎日ドキドキソワソワしています。クリスマスと正月が一気に来た気分。
『好きな人が2人できた時は、あとから好きになった人を選びなさい。先に好きだった人のことが本当に好きなのであれば、他の人を好きになったりしないから。』という言葉を昔どこかで読みました。説得力のある言葉だな、と思うと同時に少しの嫌悪感がありました。
好きな人への「愛」はそもそも量りに乗せられる物では無く、他の好きな人への「愛」と比較してはいけない。全くベクトルの違う「愛」だから、愛情の比較をしたとて何も判明しない。むしろ全く別物なのだと提示させられる。
つまり、私の莫大な愛が快斗くんに注がれることについてはこれからも微動だにしない事実であって、それとは全く別のところに善への愛情が芽を出した。簡単に言ってしまえばそれだけの事なんです。(なんのそれしきの事で私はもんのすごく動揺していたわけなんすけど。)
好きってやっぱり、難しいんですよね。何度も、色んな映画やアニメや漫画を好きになったり、恋したり、趣味を増やしたり、たくさん『好き』という言葉を使って何かを褒め称えてきたけれど、その『好き』になったもの達は、いずれも私の経験値になる訳ではなくて、毎回新しい愛情の形を作っているのだと思いました。形や音がそれぞれで個性を持った『好き』が、私にも、そしてこれを読んでいるあなたにも、隣のあの人にも、顔も知らないあの人にも、存在するのです。
私には大切な推しが2人居ます。
2人とも、大事です。
比べるものでもなく、等しくなきゃいけないわけでもなく、差分があるわけでもなく、私の「好き」という概念の中にいる2人です。
名探偵コナン-怪盗キッド
まじっく快斗-黒羽快斗
(青山剛昌先生)
鬼滅の刃-我妻善逸
(吾峠呼世晴先生)
今羅列するのはこの2人だけど、いままで私の愛情を作り上げてくれたたくさんの『好き』、全てに感謝を。
愛してるぜ!推したちよ!
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