見出し画像

Ep.13 推しの幸せが私の幸せ

推しの幸せが私の幸せなので、とか言わなくなったなあ。

それこそ昔は「推しの幸せが私の幸せ!」とか「推しが生きてるだけでファンサ」的なことを美学としていました。(勿論それを良い!美学だ!とする人を否定する訳ではありません。)ただ、ある時私の中で毎日膨らんでいく愛情を、その言葉に寄せていくのは辞めようと思いました。膨らんでどんどん大きくなっていく愛情を、その言葉からズレないように、ズレている部分は見て見ぬふりするようにしていた時期があって、それがとんでもなく辛かった。
まぁそれはSNSとか人との関わりが下手な私ならではの悩みかもしれませんが。
とにかく自分にとって推しはどういう存在だろうと見つめ直した時、私にとっていちばん不可思議な愛のカタチをしているんだなあと思いました。映画を見直したり単行本を読み漁ったり人の語りを読んだりして、改めてみると、私って推しのことなんにも知らねぇなぁって、わかった。誕生日とか凡その身長体重とか、住んでる街の名前とか、通ってる学校とか、寒いのが苦手とか、物知りなのにバレンタインだけは知らないとか、趣味とかは知っていても、推しがどう幸せになるかは知らないんですよ。でも創造神(作者様)の中では決まってるんですよね、わたしの推しの行く末が。そしてその創造神の描く私の推しの行く末が『不幸』とか『不運』だったとしても、私が願ったところでそれは変わらない。だってそれは創造神が作った最高の物語だから。あーなんっとも不甲斐ない!って嘆いた日もあります。私だって可能ならば推しを幸せにしたいなあ。そうは思えど、私一人がどう頑張ったところで推しの行く末(=物語の進行)を変えることは出来ないし、創造神のお財布を潤わせることも出来ない。そして推しは死ぬっほどかわいい。つまりもう推しに対しては全面降伏するしかないという話です。貴方様の幸せが私の幸せ!とかすごい自己満足なんだなって私の中で判明しました。

(挙手)好きです!ひれ伏します!白旗!降参!

なので、私が推しを好きでいるのは、私が私を幸せにするためです。お金を使うのは自分の手元に推しを置いて、自分の精神を安定させたいからです。

話を戻しましょう。私の推しの幸せって、私が住む世界では『創造神が決めること』ですが、推しの住む世界では『推し自信が決めること』なんですよね。それを前提として私に出来ることを考えると『君は幸せになれるぞー!』って『推しが自分で選ぶ幸せを信じること』すなわち『好きでい続ける努力をすること』なんじゃないのかなと思います。あくまで自己満足にすぎないのですが。しかし、私にとって『好きになること』よりも『好きでい続けること』のほうが難しくて努力が必要な事なので、推しが作中で何かに立ち向かって努力するのと同じだけの努力をすることで、それが創造神にも伝わることがあったらいいなあと思います。伝わるかなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?