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"強いコンテンツ"と"弱いコンテンツ" -強いコンテンツへの偏重がもたらす教育への危険性-

今日は、"コンテンツ"をテーマに書いていきたいと思う。最近、弊社としても英語教材という形でコンテンツを開発している。

なので、このテーマを以前から取り扱いたいと思っていたのだが、私が大好きなPodcast「超相対性理論」の"なぜ人は小説を読むのか?"でもコンテンツについてを話していたので、このタイミングでとりあげようと思った。

”コンテンツ"というのは非常に便利な言葉で、ありとあらゆるものが最近では、"コンテンツ"と表現されている。映画であったり、本であったり、記事であったり、私たちが体験するもの、消費するものが、言い換えるとコンテンツと称されたりしている。

強いコンテンツと弱いコンテンツとは?

今日は、私たちの生活にはなくてはならないコンテンツの種類を”強いコンテンツ"と"弱いコンテンツ"に分けて、それらのコンテンツが教育に与える影響について考えていきたい。

上にあげた「超相対性理論」では、これらのコンテンツを以下のように定義づけされていた。(一語一句同じわけではないが端的に表現するとこんな感じだと思う)

強いコンテンツ = 五感を強く刺激したり、誰がみてもわかりやすいコンテンツ
弱いコンテンツ =  一見そのコンテンツを消費しても咀嚼しきれないもの、受け手の感性に委ねられるコンテンツ

つまり、強いコンテンツとは、映像コンテンツやインフォグラフィックを代表するような、"みたら誰でもわかる”ものを指しており、弱いコンテンツとは、フランツ・カフカの小説にあるような、一見そのまま読んでも理解不能であり、多分にその人自身の解釈が含まれるものを指す。

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この、強いコンテンツと弱いコンテンツについて私も日常から考えている。

現代社会は強いコンテンツによって世界が埋め尽くされている。

あまりにも多くの情報が日々私たちの脳内にインストールされ、1時間前に入手した情報までもリアルタイムに入手した情報によって上書きされる。

このような状態だから、より「強烈」で「わかりやすい」コンテンツを提供しなければ埋もれてしまう。こうして世の中には、活字ではなく、映像やイラストを利用するシーンが圧倒的に増えてきた。

そして、教育業界においてもこの"強いコンテンツ"偏重化への動きが見受けられているように感じる。

強いコンテンツのメリットとデメリット

ここまでは、強いコンテンツと弱いコンテンツの種類について述べ、また現代社会におけるトレンドを簡単に紹介してきたが、ここからはそれぞれのコンテンツ種類がもたらす影響について考えていきたい。

まず、最近急速に影響力を持ってきた強いコンテンツ。

強いコンテンツが必要になっている理由の一番大きなメリットとして、情報獲得までの時間にある。

中田敦彦のYouTube大学は私も大好きなYouTubeチャンネルの一つだが、大体1時間程度で、様々なテーマを手っ取り早く何となく理解することができる。この事実はとてつもないことで、強いコンテンツならではである。

本来そのテーマを一人で文献やら資料やらで丁寧に紐解いて理解していくと何時間もかかる。しかし、物凄い強いコンテンツの力を利用すればたったの数十分や1時間で獲得できるのはコスパが良い。ここが最大のメリットであり、最大のデメリットである。

よく個人が自由に使える時間を「可処分時間」と表現されるが、スマホに依存している現代社会において、どのくらいの時間を使って1つの情報を獲得するか、という観点は重要になっている。

自分にとってそこまで重要でない情報だが、知っておくべき情報、知っておきたい情報は、効率よく獲得したいと思う。また、思考停止状態でもわかりやすいので、深く考えずにそのままを映像として切り取って、受け入れれば良いという点で情報獲得のための思考負荷は少なくて済む。これらがメリットであろう。

一方で、デメリットは、そのコンテンツ自体をそのまま受け入れるため、コンテンツを発信した側に悪意があったり、偏りがある場合でも、それに気づかないまま、そのまま受け入れてしまう可能性があるということだ。

弱いコンテンツのメリットとデメリット

弱いコンテンツには、その情報に対し、そのまま受け入れても何にもならないので、自分の感性や価値観をベースに、自分から情報を取りに行こうとする、理解しようとする姿勢が必要になる。一種の面倒くささがそこにはある。

情報獲得への負荷が高い点はデメリットであり、手っ取り早くわかりやすい情報を取りたがる現代社会において、存在自体が軽視されがちである。

しかし、自分自身のマインドセットとそのコンテンツを対比させ、その中から新しい意味づけを見出そうとする点では、コンテンツとのコミュニケーションが生まれる。

例えば、本を読んだときに感動するシーンがそれぞれ違ったり、その本を思い出すときにある人はこのシーンが印象的であったが、別の人はそんなシーンがあったことすら気づかないようなことがよくある。

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それこそが弱いコンテンツの魅力であり、何を自分が大切にしているのか、何をそこから自分は感じたのかを認知する際には非常に役に立つのである。

教育における強いコンテンツと弱いコンテンツ

さて、ここまで強いコンテンツと弱いコンテンツについて色々述べてきたが、教育業界においても現代社会のトレンドが反映されてきている。

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映像授業の発展はまさにこうした文脈で台頭してきた分野であるし、それ自体が間違いではなく、歴史的事実や知っておくべき正しい情報というのは、わかりやすく、効率的に学べた方が良いであるので、そういう意味では分かりやすい、"強いコンテンツ"は積極的に取り入れたほうがいい。

他方で学習指導要領も、総合的な学習の時間から総合的な探究の時間に変化したり、そもそもアクティブラーニングだとか反転学習だとかの流れというのは、インプット情報を元にして、自分自身として何に関心を持ち、何に対して考え、何を表現するか、という点が重要であるというところの文脈から出現してきた授業手法や概念である。

つまり、文科省が掲げる今後の教育業界は、「必要なインプット情報は効率的に獲得しつつも、自分の興味関心を深め、自身の考えをアウトプットする力はしっかりと身に付けていこう」という姿勢は感じる。

ここに関しては"弱いコンテンツ"が活躍する場所であろう。

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(【総合的な探究の時間編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説より)

少し話題が脱線してしまったが、コンテンツの話に戻る。

文科省が掲げる理想としては、上にあげた「必要なインプット情報は効率的に獲得しつつも、自分の興味関心を深め、自身の考えをアウトプットする力はしっかりと身に付けていこう」という意図はある。

しかし、コンテンツのみに目を向けると、以下のトレンドになりつつあるように感じる。

コンテンツ供給者はいかに"強いコンテンツ"を作ろうかを考え、
コンテンツ享受者はいかにそのコンテンツが"強いコンテンツ"であるか、を求める。

たとえそれが、上の「自分の興味関心を深め、自身の考えをアウトプットする力はしっかりと身に付けていこう」という部分であったとしても、強いコンテンツを求めるのである。

コンテンツ供給社も享受者も、経済活動においては、需要と供給のバランスで成り立っているわけなので、この関係性は連動性を持っている。

また、コンテンツ供給者はあらゆるコンテンツを開発する業者を指す。

コンテンツ享受者には、それを学ぶ「児童・生徒・学生」が存在し、そしてそれを扱う「先生」がいる。

教育における"弱いコンテンツ"への理解と姿勢

そろそろまとめに入るが、ここでは"弱いコンテンツ"の重要性の理解を高める必要性について述べていきたい。

まず一つ注意が必要なのは、教育における弱いコンテンツとして、コンテンツを利用する”そのものの使いやすさ”と”内容の複雑性”は切り分けて考えなければならない。

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強い・弱いの判断は、後者の内容の複雑性において度合いが決められており、そのものの使いやすさは関係ない。

ゲームでも、本編にいく前の操作で何をすればいいのかわからない、というのは強い、弱い以前の話であり、コンテンツそのものの欠陥になる。

最近ではUX(ユーザーエクスペリエンス)と表現されることが多いが、コンテンツを消費するためのステップは明確で、わかりやすくなければならない。

弱いコンテンツとは、そこに扱う人の解釈が入るような意図的な設計があるか否かは非常に重要であり、意図しない部分で解釈を含んでしまうのは、そもそも良いコンテンツでない可能性がある。

教育で弱いコンテンツを考えるときにここが非常に難しい部分かもしれない。

少し前置きを記述したが、コンテンツ享受者は、至れり尽くせりが当たり前になりつつある。

生徒は、これさえやっておけば大丈夫。
先生は、ここに記載されている指導案や教材通りに授業をやっておけば大丈夫。

こんな未来を全員が目指していないだろうか。

日本には学習指導要領があるものの、もっと教育は自由であるし自分自身が解釈をしながら、前に進めていくことが重要である部分はたくさんある。

もちろん学習の習熟度に応じて態度は変えなければならない。弱いコンテンツを自分なりに噛み砕くには、最低限の教養が必要になってくるし、その教養を身につけるには、"強いコンテンツ"によって効率的に学んだ方が望ましい。

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しかし、世の中が"強いコンテンツ"ばかりで溢れかえってしまっていては、コンテンツ供給者が定義した人材の再生産でしかないし、そこに何のオリジナリティがなければ、一人ひとりが幸せに生きていくのは不可能である。

ここに関しては、コンテンツ供給者が悪いのではなく、彼らが開発するものというのは、コンテンツを享受する側が一番求めるものであり、すなわち「扱いやすい教材」「授業準備、授業実施が楽な教材」になる。

この悪いスパイラルが起こりつつあるように感じる。

このスパイラルがもたらす未来として想像できるのは、社会学者の宮台真司さんがよく言っている、法の奴隷や社会の抑圧に怯えながら静かに生きる道であろう。

なので私たちは、"弱いコンテンツ"への理解を高める必要があり、コンテンツ享受者もコンテンツ供給者も意図的に"弱いコンテンツ"から主体的に時間をかけてコンテンツを味わっていく機会の確保が必要である。

弊社の「Thinking Critically about SDGs」教材は"強いコンテンツ"と"弱いコンテンツ"の両立を実現しようと努力した教材である。

インフォメーションとしての素材は提供するが、その素材自体を料理するのは生徒であるし、先生である。そこに明確なメソッドは存在しない。

負荷がかかるが、それ自体を目的として設計しているので健全である。時間をかけてコンテンツを味わい自分なりにメッセージを受け取ることは必要なプロセスだと思うし、そのプロセスが学びにつながる。

もちろんそれぞれのコンテンツには役割があり、今日あげた"強いコンテンツ"と"弱いコンテンツ"のメリットを理解した上で、どう日々の学習の中に盛り込んでいくのかというのを考えなければならない。

どちらも重要であるし、大事なのは双方がお互いにドライブしあうように学習プロセスの設計をしていくことが、これから求められるであろう真の教育者の考え方である気がするし、その先にあるものが良い学びではないのであろうと思う。

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