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自分を愛すること

皆様お久しぶりです。

唐突ですが、『自分を愛する』と聞いた時に、ナルシストとか、自己中心的な人とかってイメージを持つ方はいませんか?

決してそうではありません。narcist(ナルシスト)は日本語では『自己賛美者』ということです。(もしかすると、皆さんのイメージするナルシストはegoist(自己中心者)のことを指しているのかもしれません)自己を賛美することができる人ということは、自分の存在を認めることができているということです。

存在を認めるためには、内なる自分と対話することが大事でしょう。今の私は何を欲しているのか(モノでも目標でも)、何を自分は良しとするのかといった欲望や価値観との対話です。

で・す・が…これをしているようで皆さんしていないことに気付いているでしょうか?

先に結論を申し上げると、『自分を愛している人間は今の時点ではほとんどいない』ということです。なぜか、それは他者軸がありすぎるから。自分で意見を決めているようで、他者の見えざる手によって選ばされているのです。

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私はあのコスメが欲しい、と思っている人間がいるとします。(自分に置き換えて考えてもよいです。)なぜ、そのコスメが欲しいのか、と聞かれると、『○○ちゃんが持っているもん』とか『有名人が使ってて効果がありそう』というのがまず出てくるでしょう。この発言をした人は、すでに他者がそこに規定されており、他者の手によって自分が操作されているのです。私が欲しいのではなく、私以外の誰かによって欲するように仕組まれて、自分が操作されつつ、選んでいるということなのです。

仮に、『私はきれいになりたいと思ったから』『肌トラブルを解消して肌をきれいにしたい』と思っていてもです。その言葉の背景には、他者から綺麗にみられたいと思っている自分がいるということなのです。

自分の内なる声との対話と書きましたが、『内なる他者の声との対話』をしているだけなのです。よく自分探しの旅に出るといわれますが、結局あれも自分探しではなく、他者探しなのだと考えます。そうして旅に出ることで自分の内側で他者が形成されていき、そして内なる他者像が完成し、そこで対話をして自分の価値観なるものを作っているのです。

『自分を愛する』といった時の『自分』はそもそも存在しないんです。心理学では、3歳ごろになって『自分』を獲得するといわれています。大人になっても、自分が変化するといわれているのですから、完全な自分は存在しない。そんな状態の人間は何を基準にするのか、それが他者なのです。(ここでは自分以外の外界のものすべてを『他者』と表現しています)

心理学の話をしたので、もう少し補足すると、私たちのいう『自分』は2種類に分けられるといいます。ミード(1934)によると、自分は『知るものとしての自分(主我)』と『知られるものとしての自分(客我)』の2種類あるといわれています。前者は自我(ego)というもので、後者を自己(self)といいます。人間は自我を直接知ることが出来ないが、客我を知ることで、主我の特徴に気づくことができるといいます。

つまり、我々は他者軸によって、本当の自分なるものに出会い、考えることが出来るということです。しかし、裏を返すと、他者軸によってしか自分を見ることができないのです。

何をするにしても、他者軸が強いんです。特に日本は。その他者軸が自分を縛り、自分を見つめることはできていないのです。

さて、ここまで『自分』の話をしてきましたが、では『愛する』とはどういうことなのかを考えてみましょう。

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愛の段階として私たちは3種類の愛があるといわれています。一つは『母性愛』(motherly love)無条件の愛ともいわれ、自分が生きているだけで何もせずに愛されているということです。母親や母に変わる人間が自分のことを生まれてから育てるというのは『母性愛』が根幹にあります。

次に『父性愛』(fatherly love)これは条件付の愛ともいわれ、自分が愛されたいと思うのであれば、自分が誰か別の人間を愛しなさい、という契約的な愛です。子どもが父親や父に代わる人間との関係を築くとき、父親は母のように乳を与えたりはできないので、give&takeの関係をつくることで愛を醸成しているのです。

最後は『母性愛と父性愛を統合した状態』。これは上2つを受け取った人間が父や母という具体的な人物がいなくても、自分は母性愛、父性愛を受け取ることが出来たので、自分でその愛を信じて生きることができるという状態です。これが理想ではあるのですが、多くの人はこれには達成できていないのです。そうしないと、自分を本当に愛することはできないのです。

そして、我々は父性愛の段階で止まってしまっているのです。その大小によりまちまちですが、父性愛から脱出できていないのが現状です。

他者と契約関係を交わすことで、愛する状態を獲得しているのです。少し考えてください。お金って何ですか?時間って何ですか?

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突き詰めると、お金は『紙切れ』ですし、時間は『人間が作為的に設定した概念』でしかありません。それに我々はどれほど踊らされているのか気付いていません。このルール自体は私たちが社会を構成する上で、『社会に入るための最低限のルールだから確認しておいてね』というような不文律のルールなのです。そのルールは誰からも教えられることなく、疑いもしませんでした。そして、気付いた時には勝手に契約を結んでいた(結ばされていた)のです。

社会で自分が生きていくには、不文律でもそうでなくても、ルールなるものが存在し、それを守ることで社会の中で生活することが認められます。現代の資本主義社会が要するに『父性愛のみ』を前提にしているのです。

この記事を書いてはいますが、かくいう僕もまだ『お金』の本質とは向き合えていませんし、『時間』から逃れることはできていません。

愛するというときに、『父性愛』だけを考えるのではなく、『母性愛』も考えなくてはいけません。しかし、誰もそれを統合てきていない。

だから、本気で愛している人間もいません。その愛は『父性愛』であり、契約的な愛なのですから。本気で愛するためには『この社会の根幹を一度壊して新たな価値観を作り上げないといけない』と考えます。

内田樹著の『街場の教育論』の中で、教育のシステムが現在崩壊しているという話をした後、『教育について考えるためには、教育活動を全て停止し、改めて全員が考える機会を持たないといけない、60年かけて崩壊したシステムは60年かけて再興していかなくてはいけない、(要約)』と書いています。これは教育だけに限定した話ではなく、『愛』でも同じことが言えます。

愛について熱く語ると、実は全く宗教的でないことがわかっていただけるかと思います。愛は現代の我々に密接しているものなのです。

さて、自分を愛するということを考えていました。この話から分かる通り、誰も自分のことを賛美し、自分を愛している人間はいないのです。皆、他者軸の強い中で、他者の価値観によって生きているし、契約的な関係のもとで誰かから愛されたいことばかりを考えているし、愛せていないのです。

愛を考えるなら全員が愛を考えないといけない時期にきているのかもしれません。

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