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読書メモ

太田省一(2024)『「笑っていいとも!」とその時代』集英社。

笑っていいともが時代を反映している。
いやつくった部分もあるのではないだろうか。
テレビの存在価値を高めた番組であることは間違いない。

この本では,「笑っていいとも」をフィルターにして当時の時代を語っている。
目次は以下の通りである。

はじめに
第1章 「密室芸人」タモリが昼の司会に抜擢された理由
第2章 「テレフォンショッキング」という発明
第3章 「国民のおもちゃ」を演じたタモリ
第4章 視聴者を巻き込んだテレビ的空間
第5章 聖地・新宿アルタ
第6章 『いいとも!』と「フジテレビの時代」
第7章 『いいとも!』と「お笑いビック3」
第8章 『いいとも!』の個性的なレギュラー陣たち
第9章 SMAPが『いいとも!』にもたらしたもの
第10章 「グランドフィナーレ」を振り返る
終 章 『いいとも!』は,なぜ私たちのこころに残るのか?
おわりに

1982年10月に『笑っていいとも!』はスタートし,2014年3月31日をもって終了した。
お昼の帯バラエティとしてお茶の間に受け入れられた番組である。

1982年は私の生まれた年でもあり,「笑っていいとも!」が反映した昭和から平成,そして令和と生きている。

当時のテレビの力の偉大である。情報はすべてテレビからといっても過言ではなかった。
そんな中での「笑っていいとも!」の存在は大きかったと感じている。

学校の長期休みのときや風邪を引いたときなどに生で見れるのがうれしかった。土曜日には増刊号があり,一時,ビデオに録画して見ていたくらいである。

筆者である太田省一さんの主観が大いに含まれているものの,「笑っていいとも!」をフィルターに,当時の時代を知ることのできる著書である。
私自身がすごく楽しんで読むことができた。

第10章において筆者は,「笑っていいとも!」を次のように価値づけている。

『いいとも!』が広場であることを改めて思い起こさせる。プロか素人かを問わず,人と人とのネットワーク,そこから生まれる開かれたコミュニティとして『いいとも!』という広場はあった。タモリは,そこに出入りする多様で,ほかの場所でははみ出してしまうような人びとにとって,ここにいてもいいのだという安心感を具現する水先案内人のような存在であった。

p.195

「笑っていいとも!」を広場に例えている。なんか納得できる。
そして,筆者は,「笑っていいとも!」のエッセンスを引き継いでいるのが「Youtube」だとしている。

そして,終章において,「笑っていいとも!」の魅力を整理している。

つながりの魅力
 「テレフォンショッキング」でつながる
広場としての『いいとも!』
 レギュラー陣のミスマッチが生み出す出来事
タモリという生き方
 ジャズのセッションのように
 ルールではなく,リズムで
もうひとつの「つながり」
 戦後民主主義とテレビの存在→文化を生み出す

最後に,テレビの未来においてYoutubeを比較対象としている。
次のように述べている。

ネット,たとえばSNSには,現代において,テレビ以上に送り手と受け手のあいだに親密な近さの感覚がある。コメントやチャットなどを通じて双方がリアルタイムで気軽にコミュニケーションを取ることもできる。その様子は『いいとも!』において,出演者と観客とが番組中にやり取りをしていた姿を彷彿とさせる。その意味で『いいとも!』とインターネットのコンテンツには重なる部分があるし,それが本章冒頭でふれた調査のように,10代,20代の若い世代にも復活を望む結果につながっているのかもしれない。
ただ違いもある。すべてがそうではないが,インターネットのつながりには閉じていく傾向がある。
(中略)
オタク化する社会において必然なのかもしれないが,趣味嗜好を同じくする同好の士は集まりやすいものの,インターネットのコミュニティには新たなつながりのための余白が,その分あまりない。
それに対し,『いいとも!』にはそうした余白が豊富にあった。出演者であれ観客であれ,はたまた視聴者であれ,そこに入っていける広場として常に開かれていた。その違いは大きい。

p.212~213

本書では,「笑っていいとも!」を広場に例えているところが肝である。
筆者は広場について次のように捉えている。

たとえば,学校や家族といった集団には一定の社会的役割があり,そおkに属するためにはなんらかの条件があるとされている。その条件は法律で定められていたり,伝統や慣習で決まっていたりとさまざまだ。だがいずれにせよ,場合によっては,それに馴染めないとか,窮屈に感じているひとたちもいるだろう。
それに対し,広場は,本質的にどんなひとも許容し,包摂する場所である。そこでは,職業や地位,国籍,性別,年齢など属性だけでポジジョンが決まるわけではない。出入りも基本的に自由だ。『いいとも!』はそんな広場的空間であった。

p.204~205

やはり,人間にとって「広場」は必要である。そして,タモリさんのようなその広場における水先案内人のような存在が必要なのである。

現在は,テレビからネットへと広場のある場所が移動しているに過ぎないのかもしれない。
時代は変わってもみんな集まれる場所を求めているのだろう。

「笑っていいとも!」の終了とともに,
気付かぬうちに本当に新しい時代へと突入しているのかもしれない。

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