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鈍感さ 再考

 この記事は、事務員として働きながら考えたことを、私の思想の前提を明らかにしつつ整理したものです。
 今回は、様々なものに敏感になってしまう特性があり、そのために生きにくさを抱えている人について想像を巡らせ、考えたことを書きました。
 私の文章では可能な限り専門用語を排除します。厳密な議論よりも少しでも生きるヒントになることを重視した文章にしたつもりです。
 最後までご覧くださるとうれしいです。 

鈍感力によってコミュニケーションを始めないというあり方

 バスを待っている人の中に、列の前後の人に話しかけている人がいます。あなたはその列に並ぼう、というか、近づこうと思いますか?

 おそらく、その奇妙な人に話しかけられるのが恐ろしくて並ぶことがためらわれるでしょう。急ぎの用がないか、あるいは別の手段があれば、一旦その人が乗った後に来るバスに乗るように計画を変更するはずです。
 わざわざ不快感を味わう選択肢を可能な限り選ばない、あるいは、その選択肢を選ばざるを得ないとしても、極力避けようと考えを巡らせることでしょう。

 もう一つの例を考えてみましょう。

 あなたが中学生くらいの年齢だとして、高校生から現金を巻き上げられそうになっています。所謂カツアゲというやつですね。
 あなたは財布の中から、なけなしの千円札を抜き出して相手に渡そうとしています。そのときのあなたの行動は、果たしてあなたの主体的、あるいは積極的な意志によって行われているのでしょうか?

 おそらく、その場を穏便に済ませようと、嫌々ながらお金を差し出そうとするはずです。積極的な意志による行動ではなく、消極的な判断のもとで行動することになるでしょう。危害を加えられるかもしれないという恐怖を避けるために積極的にお金を渡す、という考え方もできます。しかし、その場の行動は、少なくともあなたの考えが起点となってなされるわけではなく、恫喝による恐怖から引き起こされるものです。あなたが何かを食べようと思ってレストランへ出かけたり、隙間時間を娯楽で埋めるためにスマホを開いたりするのとは、あなた自身の意志の有無がはっきり異なります。

 2つの例はどちらも日常で起き得る出来事の中でも、とくに非日常的なものです。前者の例は、自分が得体のしれない者から話しかけられる恐怖を大げさに表しています。後者の例は、自分の意志に反しつつ相手に応答・行動することを余儀なくなされる場面を表しています。
 大勢の人がいる場に恐怖を感じるのは、人からの目線が気になったり、人と話さないといけないかもしれなかったりすることが耐えられないからだと考えられます。

 その理由は次の2つでしょう。
➀知らない誰かに話しかけられるかもしれないから。
②話しかけられないまでも、その場にいると誰かから無視されているように感じるから。

 これらの理由と先ほどの例をコミュニケーションというか、人と接する場面に置き換えて考えてみましょう。

 前者の例は、➀の理由である「知らない他人と話す場面が発生する恐怖」に似た状況です。誰かがそこにいることで、「コミュニケーションが始まるかもしれない」ことが負担となっていくわけです。
 後者の例は②の理由と結びついていて、「誰かから無視されている自分」を想定してしまい、自分の意志と無関係に誰かに応答しなければならないと考えてしまう。それによって気疲れを起こすのです。コミュニケーションが私たちが考えるよりもかなり手前で生じているわけです。
 多くの人たちは普段、そのように「見ず知らずの他人」を感知することはありません。あるいは、そうした存在が周りにいても、基本的には無視して生活しています。コンビニやバスの中に他人がいても、距離を取り、コミュニケーションが発生しないように(礼儀と節度をもって)無視しているわけです。この上手く無視する力が「鈍感力」です。街中を歩いている時に、自分にとって関心がない人や事柄が目に飛び込んでくるのはよくあることです。それが見えているはずなのに、特に意識して見ようとはしていないはずです。あるいは、すれ違う人たちの会話が聞こえてくることはあるにしろ、わざわざその会話を聞こうとはしないはずです。関心のないものを聞こうとしない力を、私は「鈍感力」と考えています。
 もし歩いているときに人とぶつかりそうになったり、順番を譲ろうとしたりしても、自然に言葉が出てくるか、あるいはジェスチャーでその場を回避しているでしょう。見えてはいるし、聞こえてはいるために、他人からの呼びかけや応答を迫られた時には応じることができるわけです。問題ごとや関心のない事柄を回避しようとする力を発揮しようとせずとも、私たちは日常生活の中で発揮しているわけです。

 ここまでをまとめると、他人に敏感である人と私たちは、他人に対する感度のレベルが異なるだけでなく、他者とのコミュニケーションが生じる場面をどこに置いているかという点でも異なっているのです。他人へのセンサーだけが異なっていないという違いが、問題を難しくしています。
 他人と同じ場にいることで、自らの意思と無関係に応答してしまうというコミュニケーションのあり方。私たちと比べると、自らの意志で制御できない部分が生活の中を占める割合が多いのです。つまり、自分の関心がないものや接触が不要な人に対して応答しない、反応しないということが難しい場面が多いわけです。「何かをしない能力」を発揮できない、コントロールできないために刺激がそのまま調整されずに、回避されずに自分の中に流れこんできてしまう。これが「生きにくさ」の根源となっているのでしょう。

 他の物事に敏感ではない私たちは、自らの意志で制御できないコミュニケーションを「鈍感力」によって制御しています。他人を気にしないことで上手く無視し、コミュニケーションを他人が自分を認識する地点でしか起こしません。私たちの共通認識としては、自分が特に仲良くない他人に対して興味がないように、他人は自分に対してあまり興味がないというものがあります。この双方が無関心であるために「鈍感」になれています。
 しかし、他人に敏感になってしまう原因に、他人に無関心でいられない、あるいは他人から何かしらの行動を引き出される可能性が目の前に開かれていると考えてしまうことがあるようです。この考え方を変える必要があるわけですが、そのためには「鈍感力」を鍛える必要があるのです。
 他人を気にしないで、自分の中で発生しようとするコミュニケーションを止める。つながりを持ちたい相手と話すことまで禁止することではありません。他人への応答不要性に次第に慣れていき、他人も自分も無関心であることを基盤とした思考様式=OSで生活していくわけです。
 コミュニケーションを過剰に始めないというあり方が、敏感な人の生きやすさにつながる、そう考えました。

今回の記事のベースとなる考え方について

 私たちは日常生活で経験する不快感や解消できない不満を、どこかで言語化したり、合理化することで対処しています。もしくは、不快感や不満そのものが時間とともに過ぎ去っていき、気がつけば気にならなくなっている、ということもあるでしょう。
 言葉の力や忘却の力に頼ることができれば、「なんとなく嫌な感じがする」という解消が難しい問題や「生きにくい」という感覚を和らげることができます。しかし、忘却の力に頼るには時間がかかりますし、「こういうことがあって嫌だった」とか「これからこういうことがあるから何もやる気が出ない」と考えてしまう場合には、忘却の力に頼り切ることは難しいといえます。一方で、言葉の力に頼るためには、その分だけの言葉を知ることに加えて、言葉で問題となる対象を捕まえるための考え方を知っている必要があります。しかし、これは時間による風化を待つ手段よりも手っ取り早く、将来へのぼんやりとした不安感を緩和するには効果的です。
 実は、今回の記事には、問題となる対象を捕まえて格闘するための知識や考え方を散りばめてあります。むしろ、私がこれまで学んできた事柄を現実的な問題へと応用した形となっています。
 そこで、それらの知識や考え方を紹介していきます。言い訳っぽくなりますが、私の理解が不十分なものや、その考え方が生まれてくる背景を踏まえていないものばかりです。つまり、自分にとって都合の良いように本の内容をかいつまんで理解しているわけです。その点にご注意ください。

ドゥルーズの「機械」と生成変化:他者との接続と切断

 最初に、「他者」という言葉について説明します。「他者」は他人だけを意味しません。自分以外の人や物など、自分と異なる理解できない存在を他者と呼んでいます。感覚が敏感な人は、人以外の草木や動物、建築物の並びなどの他者たちからかなり多くの影響を受けているわけです。大切なのは、理解できない他者から影響を受けるということです。
 鈍感力が発揮されている時は、この他者からの刺激や影響を受けているにもかかわらず、まるで他者からの刺激を受け取っていないかのように感じています。感じとっていないことを感じるというのもおかしな言い方ですが。
 すでに気づている人もいるかと思いますが、私はこの記事を、人が感覚を受け取って、その結果として心がどう動くのか、どう考えるのかを念頭において書いています。しかも、ふだん意識されない無意識の領域を言語化して説明することに重点が置かれています。
 こうした無意識の領域を含む心理状態と行動や思考がどうかかわっているのかを明らかにしようとしたのが「精神分析」と呼ばれる分析方法です。細かい議論などは省きますが、従来の精神分析の流れを批判しつつ、資本主義社会を検討する本を書いたのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。本のタイトルは『アンチ・オイディプス』で、辞書のような厚さの本です。仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ 〈アンチ・オイディプス〉入門講義』(作品社、2018年7月、25頁)の解説を一部紹介します。
 『アンチ・オイディプス』には「機械」という言葉が出てきます。というよりも、「機械」という言葉が本書の全体に関わっています。
 ドゥルーズ=ガタリは、「いたるところに機械がある」と述べており、「機械」が人間を動かす重要な原理であると述べています。この「機械」の種類として、「欲望機械」「エネルギー機械」などさまざまなものが登場するのですが、工場で稼働している機械のことではありません。著者の二人は「機械」という概念を拡張し、「自動的」あるいは「自立的」に運動し続けているもの一般を指して「機械」と呼んでいます。さらに、この「機械」は二つの異なる要素が接触したら生まれるという言い方もしています。異なるものが接すると、異質であるためにすぐには同化しないが、相互作用する形で変化や運動を生じるということです。
 彼らは機械同士の相互作用によって生じる変化や運動を重視します。その理由やそのメリットについては上記の解説書に説明を任せるとして、この記事では他者との相互作用に焦点を当てます。
 さて、先ほどの解説書の一部を抜粋します。

『レンツ』はまさに、分裂症的な自我を描いた作品です。レンツというのは、実際に統合失調症だったとされている疾風怒濤時代の作家ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ(一七五一ー九二)をモデルにした小説です。(中略)善良な牧師であるオーベルリーンの元を訪ねた、精神を病みつつあったレンツは、牧師の前では、まるで精神分析医の元を訪れた患者のように、自分を社会的に位置付け直そうとするわけですが、牧師が友人と一緒にスイスにでかけたせいで、その間独りきりになり、牧師の家の周辺の散歩を始めると、そうしたプレッシャーから解放され、彼の身体の諸機械が自然の中の諸機械と自由に相互作用するようになるわけです。あまり意識しないで素朴に読むと、精神的に病んでいる人が自然の中で散歩することで、”精神の健康”を取り戻す話だと思ってしまいそうですが、読み進めていくと、実際はその逆で”狂気”が深まっていきます。自然治癒力にまつわる癒し系の話でなく、自然と交流することでより狂気にはまっていく、最後は完全に取り憑かれて、全く不安を感じない状態になる、という皮肉な展開になっているわけです。

仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ 〈アンチ・オイディプス〉入門講義』作品社、2018年7月、31頁

 ここでは患者と自然の互いの機械が相互作用していくことで狂気に陥っていく場面が描かれています。特に重要なのは、自然という人ではない他者と接することで機械が生じ、相互作用しているということです。しかも、その相互作用のあり方は通常の精神状態ではなされないものであるということです。
 あくまでも精神疾患の患者を取り上げているため、かなり大袈裟ではありますが、さまざまな人に対して敏感であるということは、人と接するというよりも、その場を共有することで互いが相互作用を初めてしまう状態に近いわけです。自分以外の人によって、意思とは無関係に自己が変化を被るわけです。
 この接続過剰な状態を「鈍感力」によって切断することを推奨するわけですが、そこで重要なのが「関心」です。というのも、関心は自分に入ってくる視覚や聴覚などの情報を得ること=知覚することに関わっています。
 知覚と関心について、ドゥルーズの別の著作『シネマ』の解説を見てみましょう。

知覚における引き算の原理が何に基づくかと言えば、それは行動における「関心」に基づいているからだ。われわれの可視光線が限定されているのは、いわばその範囲だけで「事足りる」からである。知覚はわれわれに行動の対象となるものを提示してくれる。(中略)われわれの眼前に広がる諸々の対象は、それらに対する可能な行動の選択肢を与えるものであり、反対に行動における関心が知覚のありようを決定する。(中略)神経系の発達にしたがって受容することのできる刺激の複雑性が増大するが、これをベルクソンは、知覚することのできる空間の拡張として考える。とくに視覚や聴覚は、身体から空間的に隔たった対象の知覚を可能にする。

福尾匠『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』フィルムアート社、2019年1月、74頁

 ここでは、行動の「関心」が知覚が受け取らなくても良い範囲を「引き算」するという内容が述べられています。また、知覚が受け取る刺激が複雑になるほど、知覚できる空間が拡張するとも述べられています。
 この議論から「鈍感力」へと議論を移しますが、視覚に他人がいたとしても、接する対象でなければ知覚として刺激を受け取っても、その人たちと相互作用(コミュニケーション)を取ったり、何か応答しなければと自己に変化を求められる感覚に陥ることもありません。接する必要性というよりも、応答しなければならないという脅迫的な感覚があると、応答すべき対象という刺激の要不要を選り分けることが難しくなると私は考えました。
 上記の解説書の議論をこれ以上持ち込むことはしませんが、私たちはそこにいる対象を見ることで、すでに思考がスタートしているのです。しかし、それでは健常者であっても狂気を免れません。その線引きとして私は「関心」を、もっと言えば「無関心」を取り上げることを重視しました。

スピノザの自由と主体性:意志と生きやすさ

 次に紹介するのはスピノザという哲学者です。最初に紹介したドゥルーズにも影響を与えた哲学者です。
 彼の有名な著作は『エチカ』であり、そこでは汎神論と呼ばれる思想が展開されています。汎神論の詳細は省きますが、この世界の全てのものは、神によって作られているという思想です。
 さて、ここでスピノザの自由の概念を紹介します。

スピノザの自由の概念は、どこかで原因という概念と結びついていることが分かります。不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることである。ならば自由であるとは、自分が原因になることではないでしょうか。(中略)スピノザはによれば、人は自らが原因となって何かをなす時、能動と言われます。私が私の行為の原因である場合、私はその行為において能動であるわけです。(中略)私が自分の行為の原因になるとはどういうことでしょうか。(中略)私たちは常に作用や影響を受け続けている。だとすると、私たちは常に受動でしかありえないのではないでしょうか。(中略)ふつう原因と結果は、前者が後者をひき起こす関係にあるものだと考えられています。ところが、『エチカ』の哲学体系においては、原因と結果の関係はそこに留まりません。原因は、結果の中で自らの力を表現するものとして理解されているのです。(中略)私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。(中略)私は『中動態の世界』(医学書院)という本で、カツアゲの例を使ってこのことを説明したことがあります。銃をもった相手から「カネを出せ」と脅された私が、自らポケットに手を入れてお金を取り出し、それを相手に手渡すとします。その時、お金を手渡す私は能動でしょうか、受動でしょうか。スピノザはその行為が誰のどのような力を表現しているのかに注目します。銃で脅してくる相手に私がお金を手渡すという行為は、その相手の力をより多く表現しています。その相手には、他人に金を差し出させるような力がある(中略)私の行為はその相手の力を表現しているわけです。(中略)これと比較するために、聖書の中の有名な「善きサマリア人」のたとえ話をここで参照してみましょう。強盗に襲われて身ぐるみを剝がされ、道端に倒れている旅人がいました。聖職者たちは見向きもせずに脇を通り過ぎます。ところが、たまたまそこを通りかかったサマリア人だけは旅人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、宿主に回復するまでここに泊めてあげてくださいと言ってお金を手渡すのです。この時、お金を手渡すサマリア人の行為は、まさしく彼の力、すなわち、人に共感したり、義の心を感じたりすることができるその力を余すところなく表現しています。彼はこの時、能動です。しかし、行為の方向だけに目を向けるならば、カツアゲされてお金を手渡す行為とこのサマリア人の行為とを区別することができなくなってしまうのです。(中略)ここで一つ付け加えておかねばならないことがあります。先ほど、カツアゲされた私の行為は受動だが、しかしそこに私の力が全く表現されていないわけではないと述べました。(中略)ここから分かるのは、行為における表現は決して純粋ではないということです。ですから、純粋に私の力だけが表現されるような行為を私が作り出すことはできません。つまり私は完全に能動的になることはできません。いつもすでにいくばくかは受動であるのです。なぜなら私たちは周囲から何らかの影響や刺激を受け続けているからです。(中略)ただ、完全に能動になれない私たちも、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる。スピノザはいつも度合いで考えるのです。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社、2021年1月、102~112頁

 要するに、私たちが自分自身の力で行動して結果をなすとき、自由であるということです。もちろん、常にその行為には他人の力が混ざっているため、完全に私たちは自由ではありません。
 しかし、この自分と他者からの影響や刺激との関係性の中で、自分自身の力を表現する=自分の力で何事かを生み出そうとする割合を増やすことが自由度を高めることになるのです。
 他者からの刺激や影響を受けることを回避することは不可能です。しかし、他者の影響の中にすっぽりと囚われてしまうことは不完全の極みであるわけです。他者との相互作用、コミュニケーションに引きずられないあり方、敏感になっているのであればそれをはね除ける「無関心」や「鈍感力」、これこそが自由への一歩だと私は考えました。

アガンベンの「非」の「潜勢力」:人は自らしないことができる

 最後にジョルジョ・アガンベンの「潜勢力」を紹介します。アガンベンについての書籍が手元にないため、「潜勢力」の考え方をざっくり説明します。
 潜勢力とは、現実に起こる前の、あるいは内部に潜んでいて表面に表れていない勢力を指します。エネルギーのような、これから何かが展開していく能力のことです。これの反対は現勢力であり、実際に現実のものとして起こっている勢力のことです。
 私たちが行列に並んでいる場合に、あまりにも長時間並んでいると不満を言いたくなることがあるでしょう。実際、私は志摩スペイン村でアトラクションに並んでいたら、目の前の子どもが待ちきれずに泣き出す場面に出くわしたことがあります。その場で私は何も言わずにその子を眺めていたのですが、その子と私の現実の表面的なあり方に違いはあっても、考えていることは同じだったのです。待っていること自体に対する不満感を募らせていたのです。それは仕方のないこととして、その子の現勢力のしるしである泣き出すという行為が意味することは、「不満を訴えることができる」力と「不満を訴えないことができる」力のバランスが崩れたということです。つまり、その子の中では二つの勢力、潜勢力が滞留していたものの、パワーバランスが保てずに決壊したわけです。
 さて、ここで私の方はどうだったかというと「不満を訴えないことができる」力が常に働いていたわけです。不満を訴えても仕方がないのでね。
 ここで注目したいのは、私たちは何かをしないことができる能力をもっているということです。この能力は特に、「非−潜勢力」と呼ばれます。これは発達障害のある人が自分を制御できずに動いてしまったり、こだわりのある対象を眺め続けてしまったりするという場面を想定するとわかりやすいと思います。自分の行動を制御するために「〜しないことができる」という力を発揮することが難しいために、自分を制御できないのです。彼らも頭の中で、その場に適した行動がわかっていても、感情や感覚に突き動かされてしまうのだと言います。感覚が敏感で人の目が気になる状態になったときに無視することが上手くできないのも、この「非−潜勢力」が発揮できないほどに、感覚や感情が揺さぶられてしまっているためであると考えます。
 何かをしないということは簡単なことばかりではないようなのです。そのことを念頭に、この記事を書いたと言っても過言でありません。私たちは「すること」と「しないこと」を上手に横断しながら、あるいは混合しながら生きています。
 「鈍感力」の起点には「非−潜勢力」があるものの、場合に応じて反応する必要があります。「あえてしない力」は、生きやすさを獲得するために、そして生きにくい環境や状態から抜け出すために必要な力だと、私は考えています。

 今回の記事の続きとして、そして単発の記事としても読めるものとして、次の2本の記事を書こうと思っています。

2.想像力は物事の見え方を左右する

 私が物語を分析的に読むために使用する知識を、よりアクチュアルに日常生活へ接続してみる、そういう記事を書くつもりです。文学作品を面白く読むためにも効果的な記事にする予定です。

3.イレギュラーを壁から余白の気づきへ変える

 私が現代における「想像力」の欠如や日常の「余白」について考えたことを、日常の場面に接続してみる、という記事を書くつもりです。
 近日中に公開予定です。

参考文献

・仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ 〈アンチ・オイディプス〉入門講義』、作品社、2018年7月
・福尾匠『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、フィルムアート社、2019年1月
・國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』、講談社、2021年1月
・國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』、医学書院、2017年11月
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ドゥルーズ理解のために読んでいた書籍
・千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房新社、2017年9月
・國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』、岩波書店、2017年9月
・檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』、筑摩書房、2019年11月
・宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』、講談社学術文庫、2020年2月
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・エファ・ゴイレン著、岩崎稔、大澤俊朗訳『アガンベン入門』、岩波書店、2010年1月
・岡田温司『アガンベン読解』、平凡社、2011年12月
・東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』、角川文庫、2016年6月

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